佐江衆一 『幸福の選択』 (新潮文庫) | 還暦過ぎの文庫三昧

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 還暦を過ぎ、嘱託勤務となって時間的余裕も生まれたので、好きな読書に耽溺したいと考えています。文庫本を中心に心の赴くままに読んで、その感想を記録してゆきます。歴史・時代小説が好みですが、ジャンルにとらわれず、目に付いた本を手当たり次第に読んでゆく所存です。

 2002年5月発行の新潮文庫。最近の文庫本は文字が大きくなったとはいえ、700ページに迫ろうというボリュームで、かなりの大作である。これも、わが家の書棚からの、再読。

 津村昭二は31歳のときに広告会社にスカウトされ、業界が華やかな頃を生き抜いて、ここ数年は閑職に回って、定年を迎えた。物語は昭二の還暦の日から始まり、その後に続くまだまだ長い人生をどのように選択してゆくのかが、一つの焦点となっている。

 その一方で、昭二の半生が克明に綴られもしてゆく。昭二は昭和8年の生まれという設定であり、戦争の進展とともに集団疎開の体験もし、東京大空襲では両親も妹も失って孤児となった。一時は上野で浮浪児の生活を送り、栃木の親戚の家に引き取られたものの、鬱屈した日々を過ごさねばならなかった。高校を卒業し、洋書の「丸善」に採用され、希望して宣伝部に配属されたあたりから、コピーライターとしての才能が認められるようになり、ようやく前途に光が射してくる。

 集団就職で東京のデパートに勤務していた佑子との恋愛と結婚。広告会社にスカウトされ、大手電器メーカーの広告を一手に引き受けての多忙な日々。その間に、皇太子夫妻の結婚パレードや東京オリンピックの開会式なども挿入され、それらを若い日の記憶として刻み込んでいる我々の年代ならば、懐かしさもひとしおである。派手な暮らしが女遊びを誘発し、佑子との間が危機に瀕したことも一度だけあった。日本が豊かさを追い求めていた時代の、一つの典型と言っても差し支えない生き方であろう。

 だが、海外赴任を検討していた矢先に病気が見つかり、それは完治したものの、広告宣伝はどうしても若い感性が必要であるため、昭二は次第に閑職に退いて、ここ数年は定年の日に備えてきた。彼は1年間を目途に小説作法口座へ通い、自分を見つめ直そうと試みる。

 その過程で、昭二は一編の小説を書いてゆくのだが、実は、その全文が劇中劇のように紹介されてゆき、この作品を三層構造にしているように思われる。昭二が主人公に据えたのは、杉本俊介というテレビコマーシャルのディレクターで、宣伝界の鬼才と謳われながら、37歳で突然自殺した実在の人物である。それは、昭二も所属した広告宣伝業界の明と暗を自らの胸に問う作業でもあった。

 長男は、同棲し、子どももできたのに、結婚という形態を選ぼうとしないなど、家族の問題も昭二夫婦には悩ましい。その中で、昭二は植木職人の見習いとして、次の人生に活路を見出そうとしてゆく。『幸福の選択』というタイトルはあまりに仰々しくて、そういう結末には、何となくはぐらかされたような気もするが、身体が動くうちは働きたいと願うのも一面の真実であろうし、幸福は人それぞれで感じ方も違うわけだから、昭二にとってはそれがベストの選択だったということなのだろう。

 自分の来し方を振り返り、これからどう生きるかを考えるよすがとして、この作品は適しているのではないだろうか。若い人よりは、やはりある程度の年輩の方にお薦めしたい一冊であった。

  2014年1月28日  読了