夏目漱石 『彼岸過迄』 (新潮文庫) | 還暦過ぎの文庫三昧

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 還暦を過ぎ、嘱託勤務となって時間的余裕も生まれたので、好きな読書に耽溺したいと考えています。文庫本を中心に心の赴くままに読んで、その感想を記録してゆきます。歴史・時代小説が好みですが、ジャンルにとらわれず、目に付いた本を手当たり次第に読んでゆく所存です。



 どのブロガーさんも同じ思いのようだが、一方で巨大地震による災害に苦しむ人々を見ながら、被災しなかった地域に住む者が暢気に読後感を書いていることには、釈然としないものがある。と言って、個人レベルでできることは限られているし、日常生活を送るよりほかにどうしようもないのだけれど。
 本書は1952年1月発行の新潮文庫。例によって、改版され文字が大きくなったことを確かめて、『行人 』とともに買い求めてきた。『それから 』も文字拡大化が図られたはずだが、自分の行きつけの書店にはまだ入っていないようだ。いずれにしろ、新潮文庫は過去の名作の文字を大きくすることに本気で取り組んでいるようであり、シニアとしてはとてもありがたい。
 と言うのも、自分は漱石を好きな作家だと思ってきたのだが、若い頃に『坊っちゃん 』『三四郎 』『こころ 』あたりを読んだだけで、ファンを自称するのも恥ずかしくなるほど未読の作品が多かったのである。で、新潮文庫の帯の「文字が大きくなって読みやすくなりました」という文言に気付いた都度、一作ずつ潰してゆこうと決意したのだ。このブログ開始後に読破した漱石作品は、すべてその深謀遠慮(でもないが)にもとずくものなのである。
 この作品には「彼岸過迄に就て」という前書が付されており、「元日から始めて、彼岸過迄書く予定だから単にそう名づけた」と漱石自らがタイトルの由来を説明している。珍しい標題の例として有名な一節である。
 この物語は、当初、敬太郎が主人公のごとく登場する。彼は大学を卒業し、相応の地位の職業につきたいと考え、紹介状を貰ってはあちこち訪問している。とは言うものの、切迫感があるわけでもなく、のんびり感が漂っていて、どことなくユーモラスでさえある。
 敬太郎は友人の須永の紹介で、須永の叔父である田口を訪ね、謎の男の尾行という探偵の真似事のような仕事を依頼される。しかし、その男・松本も須永の親戚であり、と言うことは田口の親戚でもあって、敬太郎は単に試されただけなのであった。ただ、須永の家でちらりと見かけた女性が松本と親しく食事をするのを見て、敬太郎は不思議な思いを禁じ得ない。
 物語の途中からは、敬太郎は動き回って話を聞いてくるだけの存在であり、本当の主人公は須永であることが判明してくる。そして、渦中の女性は須永の従妹の千代子であり、須永と千代子の間には複雑な事情があることもわかってくる。内向的な須永と奔放な千代子との恋愛こそがこの物語の主題であったのだ。お互いに惹かれあいながらも、怖れやいらだちが内包しており、自意識をもてあます近代知識人の苦悩が綴られてゆく。『須永の話』の章こそが、この物語の核心であろう。
 そして、最後の『松本の話』では、須永と彼の母親との関係にも言及される。いわゆる血のつながりの問題であり、須永の母が須永と千代子との結婚を進めようと強引なのも、そこに遠因のあることが示されるのだ。須永も松本も敬太郎に向かって話すという体裁を取っているけれど、実質的には物語の後半に敬太郎の出番はないのである。
 ところで、この物語では、須永と千代子とがどうなるかの結果は示されない。須永と母との問題も含めて、点描されるだけなのだ。そして、そこに漱石の狙いもあったようなのである。柄谷行人氏の解説によると、漱石はこの作品で、『吾輩は猫である』の原点に戻って、写生に徹したということであるのだから。
 漱石作品はすでに古典であろうけれど、逆に言えば、面白いからこそ古典として生きているとも言えるのである。
  2011年3月14日  読了