2006年5月発行の新潮文庫。
先日、著者の『星新一―一〇〇一話をつくった人 (新潮文庫) 』を読んだとき、この本の存在を知った。
実は、小学4年生の孫(男の子)には絶対音感がある(らしい)。彼はヤマハの音楽教室で専門コースに編入されてエレクトーンの練習をしているのだが、例えば、流れている曲の調をパッと言い当てることができる。息子に言わせると、それも絶対音感があればこそ可能なのだそうで、ジイちゃんから見れば実に不思議な能力である。もっとも、当人にとっては、調がわかるのが普通であるらしく、それを特別な能力とは感じていないようだけれど。
ところで、絶対音感とは、どういうものなのか? 以前から漠然と不思議に思っていたところへ、この本と出合ったというわけだ。逆に言えば、孫の存在がなければ”絶対”に手にしなかったであろう内容の作品なのである。
だが、音楽の素養のない人間には、わかりづらい。一つ救われた気分になったのは、絶対音感という言葉を聞いたとき、神が与えた生まれついてのものを連想したけれど、どうやらそれは誤りで、幼少時の訓練で多数の人が身に着けることができると知ったことだ。太宰治ではないが、選ばれてあることには恍惚と不安が付き物で、孫が選ばれた人間ではないことを知って、ホッとしたわけである。孫も4歳の頃からヤマハへ通い始めたと記憶するので、そこでの指導で備わったということのようだ。音楽を志向するならば、絶対音感があるほうが有利であるらしく、そのための絶対音感教育のありようも、この作品に紹介されている。ヤマハでは必ずしも絶対音感の習得に主眼をおいているわけではないようであるが。
さて、もう一度、絶対音感とはどういうものなのか? 自分の乏しい理解の範囲で述べれば、例えばピアノの白鍵と黒鍵の12音が体内に入っているということだろうか。和音を聞いても、それがどの鍵盤を押したものかが即座にわかる。曲の流れで調が把握できるのはごく自然である。彼らは曲の覚えも早いらしい。一度聞けばすぐに演奏できる人もいるということだ。こうなると、我々凡人には実に神業である。
だが、絶対音感が音楽家になるための必須かといえば、そうでもないらしい。絶対音感は音楽を学ぶのに便利であるが、時として、邪魔をすることもあるらしいからだ。それに、プロの演奏家には、相対音感も必要であるらしい。アンサンブルのためには、あるいは音楽で人に感動を与えるためには、絶対音感だけではどうにもならないらしいのである。
著者は人間が音楽とどのように向き合ってきたかをも探求し、右脳と左脳の生理学・解剖学にも触れ、音楽教育の歴史にも足を踏み入れ、五島みどりなど著名な音楽家の誕生までもを追及している。そもそも音楽は言葉で語ることがむつかしいのだが、科学的な態度を崩さずに音楽と向き合ってゆく。テーマがテーマだけに、プロの演奏家・作曲家・指揮者への取材は圧倒的なボリュームであるし、科学者へのアプローチも多岐に渡っている。大変な力作であるとは思うけれど、残念ながら、自分の理解の限界を痛切に感じる一冊でもあった。
楽器に触れ、音楽と日常的に親しむことは、長い人生に滋養を与えてくれるだろう。孫に絶対音感があるとして、それが彼の人生を豊かにするものであればいいと願わずにはいられない。
2010年6月18日 読了