大佛次郎 『天皇の世紀(5)』 (文春文庫) | 還暦過ぎの文庫三昧

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 還暦を過ぎ、嘱託勤務となって時間的余裕も生まれたので、好きな読書に耽溺したいと考えています。文庫本を中心に心の赴くままに読んで、その感想を記録してゆきます。歴史・時代小説が好みですが、ジャンルにとらわれず、目に付いた本を手当たり次第に読んでゆく所存です。

 2010年5月発行の文春文庫。朝日文庫版で全17巻であった未完の大作を文春文庫では全12巻として移植中であり、その5巻目である。

 解説でも触れられているが、「読む側にある種の忍耐を強いる」作品である。一口に史伝といっても、例えば海音寺潮五郎ならば、登場人物が作中で様々な会話を交わすのが普通であるのだが、この作品には会話文が一切ない。代わって、その人物に関連した史料が提示されるというわけだ。想像を排し、史実を淡々と記そうという配慮であり、この時代の人々の肉声を聞くようなリアルさがあって、それが面白くもあるのだけれど、史料すなわち「候文」の羅列であって、とてもすらすらとは読めない。ときとして苦行にすら思う。それでも読み進めているのは、小説とはまた異なる魅力があるからで、全12巻を読了して、その後にこれまで読んだ幕末歴史小説を再読したなら、前回見えなかったものが見えてくるような気がするのだ。

 この巻は、『義兵』『京都』の2章立てである。

 前巻が京都から長州藩が一掃されるまでであったのを受けて、『義兵』では、中山侍従忠光を首領とする天誅組に十津川郷士千人余が参加した大和の争乱を描き、次いで、平野国臣などが七卿の一人・沢宜嘉を担いで決起しようとした但馬の事件に触れている。だが、この章で著者が最も力を込めているのは、水戸の天狗党による水戸藩の内紛である。次第に暴徒化する集団を藩庁では押さえきれず、江戸にいる藩主の意向と水戸城を守る諸生党の立場が異なり、鎮撫にに乗り込んだ支藩藩主が幕府の討伐隊に降服する事態となるなど、悲惨な事件であった。幕府の対応能力の低下も明らかであり、攘夷の掛け声は次第に倒幕の動きを誘発することになってゆく。

 『京都』の章では、「禁門の変」に至るまでが詳述されている。長州が去った後、「松平容保、松平慶永、山内豊信、伊達宗城、島津久長を枢要なる幕議に与らしめ」るよう勅が下りている。幕府としては容認しがたい沙汰である。参与となった慶喜としても、朝廷、老中、外様大名のそれぞれから批難を浴びる辛い立場である。

 ところで、京都の治安を守るのは、守護職の会津藩である。いまも京都に潜伏する長州藩の活動に神経を尖らさざるを得ない。その動きの一環として、新選組の活動もわずかに描かれる。一方の長州藩とすれば、会津藩憎しの感情は高まるばかりだ。やがて、攘夷を旗標として藩をあげての上京が企図されることになる。外国艦隊が馬関海峡へ終結するという噂が流れるなかで、国元の防備よりも、まずは京都での復権が重要視されるのだ。長州藩に同情的な藩もあり、協力的な公卿もいて、地道な活動も続けられたのだが、やがて、京都へ終結した彼らは暴発し、「禁門の変」へと雪崩れ込んでゆく。長州藩の大敗である。

 毎回同じことを書くようだが、とにかく中身の濃い内容であり、あらすじを書こうとしても無理がある。「禁門の変」では、松平容保は病身をおして参内していたとか、優柔不断に見えた慶喜が果敢に戦闘の指揮を執ったとか、自分には新しい発見であった。

 歴史というものは、知れば知るほど面白い。忍耐を強いられながらも読み継いでいる理由である。

  2010年6月6日  読了