葉室麟 『乾山晩愁』 (角川文庫) | 還暦過ぎの文庫三昧

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 還暦を過ぎ、嘱託勤務となって時間的余裕も生まれたので、好きな読書に耽溺したいと考えています。文庫本を中心に心の赴くままに読んで、その感想を記録してゆきます。歴史・時代小説が好みですが、ジャンルにとらわれず、目に付いた本を手当たり次第に読んでゆく所存です。

 2008年12月発行の角川文庫。先日読んだ『銀漢の賦 (文春文庫) 』が好印象であったので、さっそく書店で葉室麟作品を買い求めてきた。この作品は、戦国期から江戸時代中期までに活躍した絵師を描いた5編の短編からなっていて、連作小説ということもできそうである。著者のデビュー作品であると同時に、表題作の『乾山晩愁』は歴史文学賞の受賞作であるということだ。

 『銀漢の賦』でも、著者の新人らしからぬ文体や物語の構成力に感嘆したのだが、それは既にこのデビュー作にも顕著であり、本格的な歴史・時代小説の書き手としての能力を存分に発揮している。注目に値する新人作家の登場であり、今後発表される作品をいまから期待したくなってしまう。

 まず、表題作の『乾山晩愁』が圧倒的に良い。尾形光琳の画業を描く作品であるが、弟の深省(陶工としての号は乾山)の視線で綴られており、物語の始まる時点は既に光琳の没後である。従って、華やかな光琳の画才は回想として語られることになるのだが、そこに赤穂浪士の吉良邸討入には光琳も手伝ったのではないかというエピソードも挿入され、さながら忠臣蔵外伝の様相を示すのが面白い。江戸で光琳が残した母子を深省が保護し、深く関わってゆくという展開も、間接的に光琳の人物像を表現しつつ、物語に奥深さを与えている。ゆうに長編小説の題材になり得るものであろうに、コンパクトで密度の濃い作品に仕上げたという印象である。

 残る4編は、いずれも御用絵師・狩野家の歴史に絡んでいる。『永徳翔天』は信長、秀吉の巨大建築物の装飾に携わった狩野永徳を描き、『等伯慕影』はその狩野派に対抗した長谷川等伯の生涯を追っている。永徳があまりに天才であったために、彼の亡き後は狩野派は低迷せざるを得ず、等伯が脚光を浴びるようになったということのようだ。そして、等伯の死後は、長谷川派は影を薄くしてゆく。この2編は、陰と陽、裏と表の関係にあると言える。それにしても、作中で、「永徳の作品はそのほとんどが焼失するが、等伯の障壁画は後世まで残り、桃山時代の最良の障壁画と言われることになる。」とあるのは、この2編を読み終えたとき、感慨深いものがあった。

 小説としての完成度という点では、『雪信花匂』が抜きん出ているのではないかと思う。狩野派の派閥争いの中、受難をこうむりつつも恋と画業を貫いた美貌の女流画家・清原雪信を描くこの作品には、華やかさの中に悲しみがあって、それだけでも心を打たれるのだが、さらに著者は、冒頭と末尾に井原西鶴を登場させて、物語の余韻を膨らますことに成功しているのだ。西鶴の『好色一代男』の中に、「白繻子の袷に狩野の雪信に秋の野を書かせ、一一」とあるところから、西鶴と雪信の一瞬の邂逅を添えたのである。絵師を描いたこの作品集のなかでも、最も絵画的なシーンであった。

 『一蝶幻景』も凝った作りの物語だ。狩野派を破門になって数寄に生きた英一蝶の波乱の生涯を描いているが、芭蕉や基角の文人が登場するかと思えば、大奥の争闘が描かれ、綱吉と柳沢までが話題となる。さらには『乾山晩愁』とはまた異なる視点で赤穂浪士も顔を出す。それでいて、一蝶のぶれない生き様は鮮やかに活写されているのだ。これも内容が濃く、しかも著者の物語を紡ぐ手腕が如何なく発揮された一編であろう。

 実に充実の作品集であった。nanikaさんのブログで、著者の『いのちなりけり』を紹介しながら、「一度読んだらハムロはもう辞められネェー」と書かれていたが、全く同感である。一刻も早い文庫化を期待したいものだ。

  2010年3月31日  読了