乙川優三郎 『さざなみ情話』 (新潮文庫) | 還暦過ぎの文庫三昧

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 還暦を過ぎ、嘱託勤務となって時間的余裕も生まれたので、好きな読書に耽溺したいと考えています。文庫本を中心に心の赴くままに読んで、その感想を記録してゆきます。歴史・時代小説が好みですが、ジャンルにとらわれず、目に付いた本を手当たり次第に読んでゆく所存です。


 2009年10月発行の新潮文庫。乙川優三郎も、自分にとっては、文庫新刊が出れば必ず購入したくなる作家の一人である。

 この作品は、帯に「感涙の恋愛時代長編」とあるように、社会の底辺を生きる男と女の恋物語である。しかし、涙が滲む以前に、彼らの肉体の酷使や苦悩の深さに息苦しい思いをして、読み進めるのが辛くなってしまった。次の展開を追ってページを繰るのに忙しい、というわけにはゆかないのだ。出口が見えそうになく、彼らの恋が成就する見込みは限りなく薄い。しかも日々の過酷な暮らしは容赦なく続き、著者もそれを繰り返し描いてゆく。その内容はあまりにも重く、少し読んでは溜息をつかねばならないほどだ。読書は楽しみのはずなのに、この作品に関しては、苦痛を伴うのである。もっとも、その抑圧あればこそ、最後の数ページに開放感がみなぎることになるのだけれど。

 女主人公のちせは、松戸・平潟地区の飯盛宿「小鮒屋」の飯盛女である。ちせは越後から十三歳で買われ、八年半の年季で下女奉公を始め、十五歳で客を取らされた。一日平均四人の男の受け入れを強制されたという。年季が明けたところで、借財が残る仕組みとなっていて、彼女たちが自由の身になる日は遠い。過酷な暮らしにより、同業の女たちで早死にする者も多いのだ。

 ちせが二十歳となったとき、高瀬舟の船頭である修次が馴染みになる。修次は銚子の漁師の生まれであったが、父親と兄を大波による遭難で失い、母と妹を養い生計を立てる手段として、「川の男」として暮らすことを選んだ。修次は古船を借金で買い、銚子から江戸まで醤油樽を運搬している。とは言え、渇水期の利根川は水量が乏しく、竿で押して少しずつ進ませなければならない。彼らはそれを「船が歩く」と言うが、これも激しい肉体労働である。

 修次は次第にちせに惹かれてゆく。積荷の都合でいつ松戸に寄ることができるかはわからないが、松戸では必ずちせと一夜を過ごすようになる。彼はちせの疲労を思いやり、その日は彼女の体を休息に充てようとする。心と心の結びつきを信じられれば、それで良いのだ。ちせも修次が来てくれることを心待ちするようになる。二人は、ちせの年季明けを待って、一緒に暮らすことを誓い合う。ようやく船の借金を返済して、修次にも少しずつお金を貯めることができるようになってきて、身請けの見通しも立ちそうなのだ。だがそれは、古い船が無事に川を往復できての話で、故障すればたちまち困窮することになるのである。また、将来に修次との夢を持ちながら、毎夜男たちに体を与え続けなければならないちせなのだ。かれらの夢が現実になることが、果たしてあり得るのであろうか?

 最後、修次はいささか強引な賭けを打つことになり、結果、ちせの明るい笑顔を見ることもできるのだが、ここで詳述するのは控えたいと思う。辛く長い日々からの解放と再生をしみじみと味わっていただくために。

 いつも思うのだが、乙川優三郎は文章が素晴らしい。才能もあるに違いないけれど、納得ゆくまで推敲を重ねた努力の賜物ではないかと思う。読者としても、腰を落ち着けて、ゆったりと読みたくなるのだ。また、この作品では、平潟の飯盛宿や銚子と江戸を結ぶ水運など、綿密な取材が反映されていて、それも濃密で奥行きのある空間の創造に寄与している。この著者は寡作なようだけれど、一作ごとの密度は高いのである。

 面白おかしいだけが読書ではないことを、久しぶりに教えられた感じがする。

  2009年10月23日  読了