松本清張 『波の塔(上)』 (文春文庫) | 還暦過ぎの文庫三昧

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 還暦を過ぎ、嘱託勤務となって時間的余裕も生まれたので、好きな読書に耽溺したいと考えています。文庫本を中心に心の赴くままに読んで、その感想を記録してゆきます。歴史・時代小説が好みですが、ジャンルにとらわれず、目に付いた本を手当たり次第に読んでゆく所存です。

 2009年9月発行の文春文庫。このところ同文庫から毎月発刊されている清張の「長編ミステリー傑作選」の一環である。とは言え、この作品の初出は1959年5月~60年6月の「女性自身」誌であり、ちょうど50年前の発表ということになる。当時は映画化だかドラマ化だかされて、話題になったと記憶するが、自分は何故か清張作品とは距離を置いて過ごしていて、ついに未読のままであった。生誕100年の企画により、ようやく読むことができたというわけだ。なお、文春文庫には早くからこの作品が収録されていたはずなのだが、今回は新装版とせず、新刊の扱いである。旧版を用いず、「松本清張全集」を底本として新たに組み直したからであるらしい。

 この作品、ミステリーとうたわれているけれど、上巻を読み終えた限りでは、何の事件も発生していない。したがって、警察の捜査もなければ、素人探偵役が真実を求めて動き回るということもない。しかし、登場人物が次第に絡み合ってきて、何かが起こりそうな不安が頭をもたげつつある。このあたりが松本清張の作話のうまさなのであろう。女性誌を意識してか、まずは恋愛を前面に描きつつも、しっかりとミステリーの要素も散りばめているのだ。読者としては、次の展開が気になって、ついついページを繰らなければならなくなるのである。

 ここでは、下巻をより深く満喫するために、主な登場人物を整理しておきたいと思う。

 ① 若手検事の小野木喬夫は、R省の田沢局長の娘・輪香子と偶然の出会いをする。一度目は諏訪で、二度目は深大寺で、そして三度目は友人の結婚披露宴で。輪香子の友人の佐々木和子に誘われて、三人で食事するようになるが、小野木喬夫が彼女たちに関心を向ける様子はなく、むしろ、輪香子のほうが彼に惹かれているようだ。

 ② 喬夫は美貌の人妻・結城頼子と交際中である。互いに、激しく惹かれるところと、それぞれの立場を考慮して自重しなければと思う気持ちとが、せめぎ合っているようだ。頼子の夫・結城康雄は、政界のブローカー的な存在であるらしく、正体の掴めない男であり、外に女もいて、自宅へはたまにしか帰らない。しかし、康雄は妻の浮気に気付いているらしい気配がある。

 ③ 喬夫は東京地検特捜部に配属されるが、そこでは政界の大型疑獄事件の内密捜査が始まる。どうやらR省がその対象であるらしい。そして、結城康雄は田沢局長への接触を企図している。

 こういう構図で、検事としての小野木喬夫はやがて被疑者である結城康雄や田沢局長と対決を迫られることになりそうである。そしてそのとき、喬夫と頼子の恋愛はどういう局面へ進むのか? 輪香子の胸には何が去来するのか? こうした想像を抱きつつ、下巻への期待はいや増すというわけだ。もう一度繰り返すけれど、松本清張のストーリーテリングは実に見事なものである。

 松本清張は人気作家であったわりには重厚な文章を書いたと思うが、この作品に関しては、女性読者を想定してか、比較的軽快な文章で、とても読みやすい。また、半世紀を経た作品であるというのに、全く古さを感じさせないのは、不思議なほどだ。喬夫の趣味が古代遺跡を巡る旅行であり、流行とは無縁の普遍性を備えているからだろうか。

 と、だらだら書きはこの辺で措いて、急いで下巻に取りかかることにしよう。

  2009年10月10日  読了