多田容子 『柳生平定記』 (集英社文庫) | 還暦過ぎの文庫三昧

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 還暦を過ぎ、嘱託勤務となって時間的余裕も生まれたので、好きな読書に耽溺したいと考えています。文庫本を中心に心の赴くままに読んで、その感想を記録してゆきます。歴史・時代小説が好みですが、ジャンルにとらわれず、目に付いた本を手当たり次第に読んでゆく所存です。


 2009年9月発行の集英社文庫。(アマゾン検索で文庫本の表紙は「No Image」であったため、上記写真は単行本のもの。) 

 著者の作品を読むのは初めてであるが、解説によると、彼女は実際に柳生新影流を学んでいるということである。プロフィールにも「柳生新陰流 小転中伝」とあり、自分にはその意味するところがわからないけれど、相当な修業を積んだということなのだと推測する。そのせいか、著作履歴を見ても、柳生を題材とした作品が多いようだ。 

 なるほど、剣術指南のシーンなどは、相当に専門的であり、著者ならではの理論的な記述がなされているようである。作品の主人公である柳生十兵衛は、柳生新陰流の極意を「切らず、とらず、勝たず、負けざる」と語り、これまで読んできた柳生物とは一線を画しているのである。そして、家康がすでに、天下が安定すれば人を殺すための剣は不要となるとして、柳生新陰流の剣理を将軍家兵法と定めた、という説明には、妙に説得力もあるのだ。一方で、隠密・忍びとしての柳生も描かれているわけで、ことはそれほど単純ではないのだけれど。

 ときは三代将軍家光の時代である。徳川の治世の安泰のため、家光は非情ともいえる大名家の取り潰しを実践し、その陰には、十兵衛を中心とした柳生の働きがあった。そして、この作品の十兵衛は、松倉氏の圧政と住民のキリシタン信仰で風雲急を告げる九州へ潜入する。十兵衛はキリシタンが一揆を起こすよう火をつけ、やがては天草四郎の乱へと繋がる大規模な蜂起を誘発するのである。そして自身は、全国の浪人を乱の助っ人として九州へ送り込むとして、各地を周遊することになる。大名家の取り潰しに伴い、全国には浪人が溢れており、彼らの多くは徳川家を恨んでいるからだ。

 だが、十兵衛の本旨は、家光の命を受けて、世の中の騒乱を治めることにある。彼は各地の浪人を組織し、熱心に柳生新陰流を指南するが、彼らを九州へ送るつもりはないのである。前述のごとく、柳生新陰流は人を斬る剣法ではなく、いわば精神修養に通じるものだ。十兵衛は大規模な浪人対策を引き受けたわけであり、また、別の観点に立てば、キリシタンを裏切ったことにもなるのである。島原では、幕府派遣の兵と九州諸公の軍とがキリシタン一揆勢と激しく戦い、一揆勢は壮絶な最期を遂げてゆく。

 だが、物語は中盤から本筋を逸脱した感じである。十兵衛がキリシタン勢の報復を受け、痺れ薬で体の自由を失ってしまうからだ。現在で言うところのリハビリへと記述が移ってしまう。もちろん段階を経て少しずつ回復してゆくのであるが、その後に、十兵衛を襲った敵との再度の対決が待っているわけでもない。島原が平定されれば、ひとまず徳川の世が落ち着いたからか、後半はきわめて政治的な筋立てとなってゆくのである。アクション作品が途中から政治論争劇に切り替わったような感じで、スッキリ感が湧かないのだ。

 隻眼の剣士という十兵衛像は、昔からの剣豪小説のヒーローである。もちろんヒーローが物語の中間で痛めつけられるのはよくあることだけれど、その場合、立ち直ってリベンジを果たすのがお約束ではないのだろうか? そこを打棄っておいて、隠密仕事と家光の側近としての立場との間で悩む十兵衛を描いてもらっても、読者にはストレスが貯まってしまうのである。

 また、十兵衛に寄り添う美紅という女性の描き方も、男ばかりの物語に色を添えるという意図があからさまで、あまり感心しなかった。過去の柳生を扱った作品とは異なる視点も見られて、新鮮さもあるけれど、ストーリーの運びには疑問を抱かざるを得ないといのが、率直な感想である。

  2009年10月9日  読了