篠田節子 『百年の恋』 (集英社文庫) | 還暦過ぎの文庫三昧

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 還暦を過ぎ、嘱託勤務となって時間的余裕も生まれたので、好きな読書に耽溺したいと考えています。文庫本を中心に心の赴くままに読んで、その感想を記録してゆきます。歴史・時代小説が好みですが、ジャンルにとらわれず、目に付いた本を手当たり次第に読んでゆく所存です。

 2007年1月発行の集英社文庫。2003年10月に朝日文庫に収録された作品の再文庫化ということのようだ。

 篠田節子の作品に接していつも驚くのは、彼女の描くテーマの多様さである。多くの作家が自分の得意分野に安住し、シリーズものをそつなくこなそうとしているのに対し、彼女は次から次へと異なる作品世界を我々読者に示してくれる。しかも、そこにたっぷりの娯楽性を詰め込んで!

 今回は、バリバリのキャリアウーマンと恋愛、結婚した男の悲喜劇が綴られ、妊娠、出産、育児と、彼の狼狽ぶり奮闘ぶりが最大の読みどころである。二人の出会いから、生まれた女児が1歳になり無事に保育園に入園するまでの物語であり、そのタイトルが『百年の恋』とは、人を食ったというか、意味深長というか、ちょっと意表を突かれた気がしないでもない。これはこれで大恋愛小説と言えなくもないし、考えさせられるところも多々ある問題作だとも思うけれど、しかし、タイトルからロマンチックな恋物語を期待して読み始めるならば、それは見事に裏切られることになるだろう。
 主人公の岸田真一は、30歳。職業は海外SF作品の翻訳家であるが、まだ無名であり、便利なライターとして原稿書きを続け、細々と生計を立ててきた。年収200万円。小太りで背は低く、オタク気質で、この年齢まで恋愛経験もほとんどなかった。そんな彼が、インタビューの仕事で運命の出会いを果たしたのが、大林梨香子。真一より3歳年上で、東大理学部数学科の大学院を修了、信託銀行に入行後は社内留学でアメリカに渡りMBAを取得し、現在は営業開発プロジェクトマネージャーという要職に就いている。年収800万。スタイル抜群の美女だ。真一は、自分より年齢も、身長も、収入も高い梨香子に舞い上がり、恋に落ちてしまう。

 梨香子の側にも、男を捉えたい欲求があったようで、結婚まではすこぶる順調である。問題は二人の新婚生活で、なるほど彼女は銀行では有能であろうけれど、家事能力はゼロであったのだ。彼らの住居はあっという間にゴミの山となり、おまけに、銀行でのストレスを真一にぶつけ、かなりの凶暴性も発揮する。職業柄自宅にいることの多い真一は、抵抗を感じながらも、主夫とならざるを得ない。我慢が限界を超え、離婚を考え始めた矢先に、今度は梨香子の妊娠が判明する。

 世間には、家事一切を妻に任せて仕事に邁進する男が多いであろうし、この物語では、夫婦の男女逆転が起きているだけという見方もできるだろう。しかし、いくら逆転していても、出産は梨香子に頼らざるを得ないのだ。男が産むことはできないのだから。だが、梨香子には母親になるという自覚も薄いようで、一切の準備が真一に回ってくる。直前まで、彼女は仕事優先の姿勢を崩さないのだ。

 その後の子育ても含めて、家庭内はどうしても真一が右往左往せざるを得ない。自分もすでに昔の人間であるので、真一の立場には、正直、ゾッとする。改めて妻に感謝したいと思う。不満を言えばキリガないが、どうにかわが家が存続しているのも、妻のおかげである。と、そういう方向へ読後感は向かってゆくわけで、ある意味、困った作品であった。

 この作品、篠田節子が青山智樹氏の育児日記に触発されたところから誕生したらしい。作中のゴチック部分は青山氏の日記の引用ということだ。もっとも、大胆なデフォルメが施されているはずで、モデル云々は無意味であろうと思うけれど。

 夫婦、家庭、育児など、考えさせられることの多い作品で、カバーに「逆転カップルの結婚生活を描く傑作コメディ」と書かれているけれど、自分としては、コメディというよりはシリアスドラマの印象であった。ただ、ここまで読んだ篠田節子の作品に比べると、ストーリーが一直線で、強引な展開が影を潜めているような気がするのが物足りない。梨香子のモンスターぶりには十分に圧倒されたけれど。

  2009年8月27日  読了