志水辰夫 『男坂』 (文春文庫) | 還暦過ぎの文庫三昧

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 還暦を過ぎ、嘱託勤務となって時間的余裕も生まれたので、好きな読書に耽溺したいと考えています。文庫本を中心に心の赴くままに読んで、その感想を記録してゆきます。歴史・時代小説が好みですが、ジャンルにとらわれず、目に付いた本を手当たり次第に読んでゆく所存です。


 2006年12月発行の文春文庫。同文庫の「いい男の35冊」フェアの中の1冊である。

 志水辰夫はハードボイルド作品で格好良い男を数多く描いてきたけれど、この『男坂』には、そういう華やかな男は一人も登場しない。人間社会の最下層に沈み、うらぶれて、しかしどこか憎めない渋さを秘めた男ばかりである。決して格好良くはないけれど、ペーソス溢れる男たちの物語なのだ。ちなみに、『男坂』とは、「寺社の参道などで、相対するふたつの坂の傾斜の急なほう」のことであり、この作品では、その総タイトルのもとに、『扇風機』『再会』『サウスポー』『パイプ』『長くもない日』『あかねの客』『岬』の7編の連作短編が収録されている。いずれも、急な坂道の上り下りに疲れ切った男たちが描かれているとも言えるだろう。

 この中でベストと感じたのは、『あかねの客』であった。「あかねの間」に宿泊した藤岡という一癖ありそうな男と、その旅館に勤める和江という寡婦が交錯する物語である。和江の夫は、集中豪雨で川が氾濫した日、車ごと流されて死亡したのだが、その車には女性の同乗者がいて、一緒に死んでいる。その女性が月に一度郵便局に送金に訪れていたことはわかっているが、夫との関係が和江には掴めず、喉に小骨が刺さったような感覚を持ち続けてきた。藤岡はその女性の弟であり、殺人の罪で服役し、ようやく姉が亡くなった場所を訪れたのである。藤岡の動きには不穏な影も見えたが、結果的に集中豪雨の日の真相が明らかになり、それは和江の胸のつかえを取り去ることでもあった。姉の送金先も含めて、全てが明らかになる最後の数行が実にすばらしい。ジーンときます。

 『長くもない日』も、ホロリと泣ける話だ。妻が入院し、その介護をしながら、彼女のお店「綾」の灯をどうにか守り続ける男の規則的な生活が切なく描かれる。そこへ、たまたま雨宿りに店の前に佇んだオカリナ奏者との短い会話が挿入されるだけの、ただそれだけの物語なのに、生活の細部が丁寧に綴られることにより、夫婦の情愛が立ち上ってくるのである。

 逆に、『再会』は数奇な運命の夫婦の物語であるが、これも最後の数行がよく効いて、思わず涙が滲んでくる。滋郎は会いたくなかった聖に再会してしまい、彼に脅されてお金を払うことになってしまう。それというのも、滋郎は聖の妻と生活をともにしているからだ。彼女は目が不自由で、滋郎が支えていると言ってもいい。やがて聖の要求はエスカレートし、滋郎は殺意を抱くに至るのだが、意外な結末を迎えるのである。読者はホッと安堵することになるのだ。

 だが、この作品集は、決して泣ける話の寄せ集めではない。最初に書いたように、渋い男たちのイメージのほうが強烈なのだ。『扇風機』で少年と交流を持つ刑務所帰りの男も、『パイプ』で、建築工事の宿舎を訪ねてきた人間からある男を庇う田村(彼も前科がある)も、貧しくうらぶれた境遇にはいるけれど、それでもどこかに芯を持っていて、そこだくは曲げないという生きざまを示しているのである。だから、ここで描かれる男たちには卑屈の影はない。それだけが彼らの強さの源泉なのだ。

 「いい男」という言葉にはそぐわない気もするけれど、人生には成功も失敗もあって、失敗したからといってそんなに卑下したり悲観したりする必要なんかないと、そういう勇気を得られる作品集であった。

  2009年8月29日  読了