大江健三郎 『日常生活の冒険』 (新潮文庫) | 還暦過ぎの文庫三昧

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 還暦を過ぎ、嘱託勤務となって時間的余裕も生まれたので、好きな読書に耽溺したいと考えています。文庫本を中心に心の赴くままに読んで、その感想を記録してゆきます。歴史・時代小説が好みですが、ジャンルにとらわれず、目に付いた本を手当たり次第に読んでゆく所存です。

 1971年8月発行の新潮文庫。単行本初出は1964年4月とあるから、およそ45年を経た作品である。

 お盆休みも遠出の予定がなく、であるならばへビィーな本をじっくり読んでみたいと思い、大江健三郎の著作に食指が動いた。書店の書棚からこの作品を選んだのは、改版が施されて文字が大きく読みやすくなっていたからに過ぎない。当初は、かつて読んだ『個人的な体験 』か『同時代ゲーム 』あたりの再読を企図していたのだが、目が衰えてきた悲しさから、文字の大きさが本を選ぶ際の要素になりつつあるのだ。自分は若いころ大江作品に親しんだつもりでいたけれど、この『日常生活の冒険』に接するのは初めてである。

 冒頭、読者は斎木犀吉の若い死を知らされる。それも、「あなたは、……おありですか?」との問いかけから始まるのだ。語り手は小説家の『ぼく』で、もちろん著者を髣髴とさせる人物ではあるが、いつもの大江作品の例に洩れず、これはいわゆる私小説ではありえないのであって、「ぼく」=大江健三郎ということにはならない。この作品は、斎木犀吉の死に触発された「ぼく」が、彼との交流を回想し、結果として彼の伝記を書くことになるという体裁となっているのである。そして、折に触れて思い出したように読者への語りかけが挿入される。小説を読むというよりは、「ぼく」の語りを聞くというイメージなのだ。

 ところで、「日常生活」と「冒険」とは、相反する意味を内包しているのではないだろうか? 実際、この作品に描かれる斎木犀吉の短い生涯は、日常生活とは縁遠いものである。彼は当初モラルの探究者として登場し、自分の思索を饒舌に語りもするけれど、生活に関しては、常に誰かに寄食しているのだ。最初は四国に住む「ぼく」の祖父が、次には小説が出版され印税が入るようになった「ぼく」が、彼の希望に沿うように相応のお金を出すことになる。さらには、犀吉は新興財閥の創業者の娘と結婚し優雅な暮らしを入手するし、彼女と離婚後は、イタリアの富豪の娘と婚約詐欺まがいの交際をして、いささかいかがわしくも贅沢な生活をしている。一方の「ぼく」は、発表した小説が右翼の攻撃を受けたことに動揺している時期で、執筆活動から遠ざかり、犀吉に引き連れられるように、かなり濃密な交流を続けるのである。犀吉には人を虜にする魔力があるようなのだ。

 だが犀吉は冒険家であって、一定の場所に安住することはない。彼はトラブルメーカーでもあるようだ。そして「ぼく」は、執筆の再開を機に犀吉と距離を置くようになる。犀吉は何かをなそうと懸命に駆け、しかし何事をなすこともなく、最後は、イタリア女性と旅行中の欧州の地で、自殺してしまうのだ。

 困ったことに、こう書いてきても、この作品の本質には何も触れていないのではないかと、不安でならない。ストーリーよりも、各ディティールのほうが重要ではないかとも思えてくる。例えばセックスに関してだけでも、作中には実に色々な言及がなされているのだ。また、犀吉の周囲には不思議なキャラクターの若者が常に配されてもいるのである。だから、読み進めるのにはそれほどの苦労をしなかったのだが、この長編小説で著者が何を主張しようとしたかとなると、結局、自分にはよくわからない。口惜しいけれど、これが自分の読解力なのである。

 お盆休みを利用して大江健三郎を一冊読んだことで、それとなく満足している自分もいるようだけれど。

  2009年8月16日  読了