角田光代 『夜をゆく飛行機』 (中公文庫) | 還暦過ぎの文庫三昧

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 還暦を過ぎ、嘱託勤務となって時間的余裕も生まれたので、好きな読書に耽溺したいと考えています。文庫本を中心に心の赴くままに読んで、その感想を記録してゆきます。歴史・時代小説が好みですが、ジャンルにとらわれず、目に付いた本を手当たり次第に読んでゆく所存です。

 今朝の朝日新聞で、佐野眞一氏が最近の図書館のありように疑問を呈していた。その論旨は『だれが「本」を殺すのか 』(新潮文庫)の延長上にあり、特に耳新しいことでもなかったが、自分としても、ブログを拝見していて、図書館で借りて読んでいる人が意外に多いことに不思議な気持ちを抱いていて、改めて佐野氏の主張に頷いてしまった。図書館の予算が限られているのであれば、売れ筋本の収集などせずに、一定のビジョンに沿って本を揃えてゆくべきではないかと思う。自分自身、図書館は調べ物をするところであるという固定観念を持っていて、しかしそこで調べなければならない事情に至ったことがないので、利用したことはない。本は買って読むべきだというのが、自分の信念である。文庫本しか買わないのは、もちろん経済的理由もあるが、収納スペースに不自由しているからでもある。読んだ本は、ささやかながら自分の蔵書として、書棚に並べておきたいのだ。老後に、それらをもう一度読み返すことができれば幸いだと思いながら。

 もちろん、現に図書館があり、読みたい本をリクエストすれば揃えてくれるのだから、利用しない手はない、という考え方もあるだろう。世の中にはいろいろな考え方があり、利害得失の受取り方も様々だ。ただ、そのことが佐野氏の主張のように「本を殺す」ことに繋がるかも知れないことだけは、頭の片隅のどこかに残しておいたほうがいいのではないだろうか。出版社や書店が荒廃してゆくのは、本好きには堪えられないことなのだから。

 と、言わでもがなの呟きはここまでにして、本題に入ります。

 本書は2009年5月発行の中公文庫。このところ角田光代の作品を短編中心に続けて読んできているので、新刊に気付いてつい購入してしまった。

 谷島酒店の四女・里々子が「私」という一人称で語る作品である。「私」は高校三年生。長女の有子は嫁いで家を出ており、両親と、次女・寿子、三女・素子の五人暮らしである。この家族の、およそ一年余に亘るあれこれを、「私」の視点で賑やかにかつ感受性豊かに語りつくしてゆくという趣向だ。

 近所に大型スーパーのオープンを控えていて、谷島酒店の経営は前途多難である。実際、スーパーが開業してみれば、客足はバタリと絶え、やがて素子の発案で店舗改装へと進むことになる。

 寿子は小説を書いて応募し、見事に新人賞を受賞した。その小説はと言えば、谷島酒店の日常をスケッチ風に描いたもので、家族にとっては恥ずかしくなるような内容である。同じ作品がさらに大きな賞にも選ばれて、寿子は作家として華々しくデビューしてゆくが、その間にはかなりのドタバタ劇があり、なおかつ寿子はその後小説を書けなくなってしまうのである。

 有子は、突然嫁ぎ先から帰ってきてしまい、やがて離婚へと至ることになる。これも、寿子の小説に過去のあれこれを書かれた所為なのかも知れない。有子は元彼と逢っているようであり、素子と「私」は彼女を尾行して探偵の真似事のようなこともする。

 そして「私」は、受験勉強に集中できないまま、大学入試に失敗し、予備校生となる。喫茶店でバイトを始め、そこで恋もする。しかし、「私」が処女を失うのは、その彼ではなく、お店のお客としてよく来店する大学生だ。

 その他にも、叔母さんや祖母の死が描かれ、もちろんそれらは重なり合って複合的に続いてゆくわけで、小さな家族の物語であっても、事件の連続なのである。なお、タイトルの『夜をゆく飛行機』とは、物干し台に置かれたベンチに座って、「私」はよく夜空を見上げ、飛行機の光を眺めるところからきている。

 語り口は、女子高生らしい軽い饒舌体であり、すらすら読めて、それなりに面白いのであるが、「婦人公論」連載とあるように、あくまで女性向けの物語であって、還暦過ぎの老人が読む作品ではなかったような気がする。全体に、物足りなさも拭えないのである。

 どうやら、吟味もせず、その場の思いつきで購入してしまうことの弊害が出てしまったようだ。

  2009年6月20日  読了