町田康 『きれぎれ』 (文春文庫) | 還暦過ぎの文庫三昧

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 還暦を過ぎ、嘱託勤務となって時間的余裕も生まれたので、好きな読書に耽溺したいと考えています。文庫本を中心に心の赴くままに読んで、その感想を記録してゆきます。歴史・時代小説が好みですが、ジャンルにとらわれず、目に付いた本を手当たり次第に読んでゆく所存です。

 2004年4月発行の文春文庫。『きれぎれ』と『人生の聖』の2編が収録されている。なお、表題作の『きれぎれ』は芥川賞受賞作ということだ。

 町田康の作品にあっては、ストーリーを追いかけることには意味がないような気がするけれど、『きれぎれ』は画家であるらしい「俺」が次第に貧窮してゆく過程を描いたものである。かつて彼の実家は陶器店を営み、そこそこの資産もあって、「俺」は働かなくても食べてゆけたのだ。「俺」は母が薦める資産家令嬢の新田富子との見合いをぶち壊し、ランパブで馴染みのサトエを娶った。母が死に、陶器店には負債があって、資産の処分でようやく返済できたが、さて、手元不如意となってしまった。ここからは延々と続くドタバタ劇である。町田康の作品が面白いのはこのあたりだ。「俺」が真剣に金策に動き回る様子は、読者にとっては滑稽劇に他ならない。ところで、新田富子は「俺」の友人でやはり画家である吉原と結婚しており、その後の吉原は、それほどの才能でもないはずなのに世間的に成功し、いまでは個展を催すほどの勢いである。「俺」は吉原と富子に借金の申し出をしに出かけ、施しを受けることになる。

 と、ストーリーを紹介したところで、この作品を論じたことにはならないのである。その場その場で、突然の連想が飛躍してゆき、しかもそれは強烈なギャグを内包しており、つい笑い転げながら、読者は「俺」が堕ちてゆくのを傍観している自分に気付かざるを得ない。悪いことに、「俺」はそこそこの教養もあって、その彼が堕ちてゆくから面白しさが倍加するのである。吉原や富子は凡人であるかも知れないが、では、凡人ではないはずの「俺」のこの有様はどうであろう。

 解説にもあるけれど、没落という共通項から、町田康はしばしば太宰治との類似性を指摘されるということである。しかし、太宰は津軽で一番の名家に生まれ、そのことに罪悪感を感じ、自ら意識して堕ちてゆこうとしたはずであり、この作品の「俺」のように、本来は堕ちてゆきたくないのに、結果的に没落してゆかざるを得ないということとは、決定的に異なるのではないだろうか? 太宰と比肩するという読み方よりも、本人が真面目にジタバタすればするほど、他者にはそれがユーモラスなのであって、それがこの作品の魅力であるということで十分ではないかと思う。

 だが、こうした考察を強いるあたりが、町田康が単なる物語作家ではないことを明瞭に告げている。エンタティメントには背を向けて、彼は純文学の伝統に殉じようとしているのかも知れない。そして、もしそうであるならば、それは日本の文学にとって心強いことであるような気がする。

 なお、もう一編の『人生の聖』については、『きれぎれ』のさらなる発展のような気もするけれど、いささか跳躍の度合いが大きいので、戸惑ってしまった。大衆に迎合しないのは良いとしても、孤高の文学と言えるほどでもないような気がする。と、大衆の一人に過ぎない自分が偉そうに言うことでもないのだけれど。

 7kichiさんの傑作の声に後押しされて、次は『告白』を読むつもりで、購入してきました。文庫本には珍しい分厚さで、そのぶん値段も高くて、驚きましたが。

  2009年2月13日  読了