吉村昭 『暁の旅人』 (講談社文庫) | 還暦過ぎの文庫三昧

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 還暦を過ぎ、嘱託勤務となって時間的余裕も生まれたので、好きな読書に耽溺したいと考えています。文庫本を中心に心の赴くままに読んで、その感想を記録してゆきます。歴史・時代小説が好みですが、ジャンルにとらわれず、目に付いた本を手当たり次第に読んでゆく所存です。


 講談社文庫の8月の新刊。この作品の単行本発行は2005年4月であり、カバーの略歴によれば著者の没年が2006年とあるから、吉村昭の最晩年の長編小説だと言えそうである。

 この作品は、幕末から明治時代にかけて医学に多大な業績を残した松本良順の生涯を描いた歴史小説である。松本良順は蘭方医・佐藤泰然の次男として生まれ、幕府の奥医師・松本良甫の養子となった。幕府は漢方を重んじていたため、実父が蘭方医という経歴は問題となったが、良順は幕府が課した試験に合格している。その後、オランダ医学を修得したいと希望し、海軍伝習生の資格で長崎へ派遣され、およそ5年間ポンペに学んだ。当時の幕閣は頑迷固陋なイメージであるけれど、制度を弾力的に運用して、新しい医術を習得させようとした人もいたことがうれしい。良順は官費で長崎留学を果たしたのである。

 開国で西洋医学が認められたこともあり、良順は14代将軍・家茂、15代将軍・慶喜の侍医を歴任した。戊辰戦争では、幕府から受けた恩を忘れがたく、会津・仙台へと幕軍の従軍医のような役割を果たしている。仙台で、榎本武揚に蝦夷への同行を依頼されるが、新選組の土方歳三は、横浜行きの船に乗り江戸へ帰ることを勧める。維新後、良順は逆賊として収監されるが、彼の業績は明治政府にも高く評価されるところであって、釈放後は陸軍の医療体制の確立に尽力した。牛や豚の肉が滋養に溢れ病後の体力向上に資するとして病院の食事に採用したり、牛乳や海水浴を奨励するなど、民間人の衛生啓蒙にも力を注いだ。大磯海岸を海水浴のできる別荘地として開発したのも良順である。

 この作品、小説というよりは、史伝と呼んだほうが正確なのかも知れない。吉村昭のいつもの手法がこの作品でも採用されていて、フィクションを排し、取材と調査で得た範囲の歴史的真実のみで構成されているからだ。著者はここでも虚飾を交えないという姿勢を貫いている。

 オランダ人のポンペとの交流に至る記述がまず秀逸である。言葉の壁を乗り越え、医学の基礎から臨床までを学んでゆく過程がよく描かれている。さらには、あくまで幕府側の人間であるという立場で、戊辰戦争では死を覚悟しつつ行動する良順の姿勢が感動的ですらある。従軍医師として、良順は多くの命を救ったのである。その良順を無駄に死なせず、彼の医学知識を次世代にまで残そうとした松平容保や土方歳三の姿も清々しい。そして、新時代に自由の身となって家族と再会するシーンは、思わず涙が溢れてくるほどであった。虚飾を排しても、事実の重みだけで、十分に人の心を打つことはできるのである。

 なお、松本良順は、司馬遼太郎の長編『胡蝶の夢』でも描かれているということだ。司馬作品も随分読んだけれど、その作品は未読であるような気がするし、吉村昭は司馬遼太郎の小説作法に批判的であったとも聞いているので、今度はそちらも読んで、両者を比較してみるのも一興ではないかと思っている。

  2008年9月8日  読了