村上元三 『次郎長三国志(下)』 (角川文庫) | 還暦過ぎの文庫三昧

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 還暦を過ぎ、嘱託勤務となって時間的余裕も生まれたので、好きな読書に耽溺したいと考えています。文庫本を中心に心の赴くままに読んで、その感想を記録してゆきます。歴史・時代小説が好みですが、ジャンルにとらわれず、目に付いた本を手当たり次第に読んでゆく所存です。

 角川文庫の7月新刊の下巻。1983年3月に文春文庫に編入された作品の再文庫化であるのは、上巻と同じ。

 乾分(こぶん)が増え、次郎長が貫禄を増してゆくというのは、すなわち、縄張り争いに勝ってゆくということに他ならない。博打打ちの経済は賭場のテラ銭で成り立っていて、縄張りがなければ、乾分を食べさせることさえできないからである。互いの縄張りを侵食し、そこに喧嘩が発生し、殺傷沙汰となる。博打打ち同士の喧嘩は代官所も大目に見たようだが、人を殺せば凶状持ちであり、ほとぼりが冷めるまでは地元で安穏としているわけにはゆかない。大きな出入りの後は親分乾分揃っての逃避行となる。この物語の大筋はその繰り返しであり、その度に、次郎長一家は大きくなってゆくのだ。  

 この下巻では、森の石松が琴平代参の帰途に都田の吉兵衛らに謀殺され、次郎長一家がその仇を討つエピソードや、クライマックスともいうべき高神山の決闘などが描かれ、子供のころに東映時代劇に親しんだ者には楽しい読み物となっている。高神山では次郎長本人は参加していないのだが、これも縄張りを巡っての神戸の長吉と穴太徳の争いに、大政以下の次郎長一家の精鋭が助太刀し、吉良の仁吉や法印大五郎の死という代償を払いながらも、少人数で敵方を蹴散らし圧倒したのであり、結果的に、次郎長の勢力が伊勢にまで伸張する原動力となったのである。一方で、大政と並び称される小政が次郎長の乾分になったのは石松の死後で、名前の通った乾分のなかでは最も遅いのが、意外な感じもした。次郎長の妻のお蝶についても、初代から3代目まで丁寧に語られている。

 だが、この作品の最大の特徴は、最後の2章に「天田五郎」「神田伯山」の二人を立て、明治維新後の次郎長の事績と、何故一介の博打打ちであった彼がこれほどまでに名を残すことになったか、というところまで言及していることである。天田五郎は次郎長の伝記『東海遊侠伝』の著者であり、神田伯山は講釈師として次郎長を語り、大人気を博した人物だ。確かに維新後の次郎長は山岡鉄舟に心酔し、社会に役立ちたいと開墾や港湾事業に注力し、明治26年まで余命を全うした。同じ博打打ちでも、次郎長の好敵手であった黒駒の勝蔵は、官軍に参加して奥羽戦線まで従軍しながら、博徒時代の罪を問われて斬首されているのだから、天と地の開きである。運がよかったのか、それとも、世渡りが巧みであったということなのだろうか。いずれにせよ、上記二人の存在がなかったならば、次郎長の名ががこれほどまでに人口に膾炙することはなかったにちがいないのである。

 著者は『東海遊侠伝』は参照したけれど、神田伯山の講談は採用しなかったと断っている。我々の年代には、「清水港は鬼よりこわい、大政小政の声がする」のフレーズは耳に馴染んでいて、次郎長人気に伯山が果たした役割の大きさを実感せざるを得ないのであるが。

  2008年8月29日  読了