宇野千代  『薄墨の桜』 (集英社文庫) | 還暦過ぎの文庫三昧

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 還暦を過ぎ、嘱託勤務となって時間的余裕も生まれたので、好きな読書に耽溺したいと考えています。文庫本を中心に心の赴くままに読んで、その感想を記録してゆきます。歴史・時代小説が好みですが、ジャンルにとらわれず、目に付いた本を手当たり次第に読んでゆく所存です。


 2007年10月発行の集英社文庫。とは言え、1979年3月発行の同文庫の再刊だということである。
 宇野千代という作家については、『おはん』を読んだことがあるだけで、積極的に好きだというわけでもないのだが、タイトルの『薄墨の桜』に惹かれて、つい購入してしまった。薄墨の桜は、わが岐阜市の近隣・根尾村に位置し、春には多くの花見客を呼び寄せている有名な老木であるし、一時は枯れかけたその老木の再生に宇野千代が一方ならぬ尽力をしたことを、伝え聞いてもいたからである。
 『薄墨の桜』は、宇野千代の分身であろうと思われる着物デザイナー・吉野一枝が「私」という一人称で語り聞かせるというスタイルの作品である。そして、樹齢1200年といわれるその老木の無惨な姿を見てから、岐阜県へ働きかけ、自らも寄付金集めに奔走して、その蘇生に執念を燃やす様子が描かれてゆく。当時の平野岐阜県知事や、文化庁長官であった今日出海、さらには水上勉や青山二郎など、実在の人物が実名で登場するし、当初私財を投じて老木の蘇生に取り組んだ医師や、作業に当たった職人の名も出てくるので、この部分は事実に即したことを語っているのではないかと思われる。
 しかし、村の有力者で、老木の背後の白壁に囲まれた堅固な家の女主人・牧田高雄が登場し、彼女の水田が桜の蘇生の障害となっていることから「私」との確執が生じることとなって、やはりこの作品は小説なのだと改めて知らされることになる。高雄は戦後の東京で不動産・金融・骨董など手広く事業を展開し、いまでは資産70億円と豪語していて、千代田区で高級料亭「高雄」をオープンさせた。物語は、薄墨桜の再生への歩みを背後へ押し隠して、強欲な老女である高雄と、人質同然に牧田家の養女となった美貌の芳野、そして芳野をひたすら愛する杉本青年のその後について、熱く語ってゆくことになる。高雄と芳野の悲劇的な死まで、ほとんど一直線という感じなのだ。と言うか、いかにも戯曲的なこの悲劇を語りたいがために、薄墨桜を背景に添えたと言ったほうが、近いのではないかとさえ思えるのである。
 高雄という老女が死んで、薄墨桜という老木がようやく生き返るというのも、実に象徴的である。薄墨桜の美しさとともに、豪華な着物、豪華な料亭の佇まいと、悲劇であるのに、まるで極彩色の絵巻を見ているような艶やかな作品となっていて、独特の印象なのだ。読む前のイメージとは相当な隔たりがあったけれど、これはこれで、十分に楽しめる作品であった。
 もう1編『八重山の雪』も収録されており、これも語りの作品であるが、戦後日本に駐留した英国人兵士と日本女性との恋物語であり、『薄墨の桜』と比較すれば起伏に乏しく、地味な印象になってしまった。著者の語りの巧みさだけが際立つという読後感であった。
  2008年8月22日  読了