新田次郎 『劒岳・点の記』 (文春文庫) | 還暦過ぎの文庫三昧

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 還暦を過ぎ、嘱託勤務となって時間的余裕も生まれたので、好きな読書に耽溺したいと考えています。文庫本を中心に心の赴くままに読んで、その感想を記録してゆきます。歴史・時代小説が好みですが、ジャンルにとらわれず、目に付いた本を手当たり次第に読んでゆく所存です。

 文春文庫の新装版。単行本初出が1977年8月、当初の文庫編入は1981年1月ということだ。およそ30年前の作品だが、映画化の予定があるらしく、書店では平積みされていた。

 タイトルの「点の記」とは、一等・二等・三等とある三角点の設定記録のことで、明治21年以来の記録は永久保存資料として国土地理院に保管されているということである。この作品は、正確な地図を作成する前段として測量観測が実施されねばならず、そのためには三角点を定め観測用やぐら(覘標)を建設することが必要であるため、それまで人跡未踏と言われてきた劒岳に登頂し、必要な作業を終えるまでの、測量手の物語である。しかし、劒岳はあまりに急峻で、この作品に描かれる明治40年当時、必要な機材を持ち上げることができず、やむなく四等三角点しか設置できなかった。したがって、彼らの事績は国の記録としては残らなかったのだが、その山の先人の勇気溢れる偉業は、ここに文学作品として結実し記録されたというわけである。

 明治も末のこの当時、地図の作成は陸軍の管轄下にあり、陸地測量部は未登の山のほとんどを登ってきていて、それが陸軍の誇りでもあった。そこへ、発足間もない山岳会が劒岳への登頂を目指しているという情報が入った。劒岳は弘法大師が草鞋三千足を使っても登れなかったという伝説の山であったが、そこへ民間人に先を越されてしまっては、陸地測量部の立場がない。というわけで、測量夫・柴崎芳太郎に劒岳を中心とする三等三角網の完成が命令される。柴崎は、人を寄せ付けない劒岳に、山岳会に先駆けて登らなければならないことになってしまった。

 ここからは実に地味な作業の連続である。彼はまず下見に出かけ、春を待って、二人の測夫、現地案内人、荷揚げ人足などからなるチームを編成して、山中へ入ってゆく。彼らは劒岳への登頂だけを目的とするわけにはゆかない。四周を見渡せる場所に三角点を選ぶことから始まり、標石を打ち込み、観測用やぐらを立て、その後、各三角点と周囲の三角点との位置関係を測量するという一連の作業があるのだ。登山道などない山を登り、機材を上げるのは、苦しい仕事である。彼らは寒い山中でテント生活を送りつつ、着実にスケジュールをこなしてゆく。この作品の中心をなすのは、測量の実際と、劒岳・立山周辺の山々の描写なのである。

 そして、多忙な業務の間を縫うように、劒岳のルート探索が行われる。「雪を背負って登り、雪を背負って帰れ」という行者の言葉を吟味熟慮のうえ、大雪渓を詰めて、山岳会に先駆けて登頂に成功するシーンは、やはり感動的だ。特に案内人の長次郎の献身的かつ超人的な活躍は、現代で言うところの山男の本領を示しているようで、素晴らしいの一言である。

 実は、自分も山に堪能なN先輩に助けられて、立山の主峰・雄山に登ったことがある。ゴールデンウィークの春スキーが目的で、N先輩が自分のスキー板も担ぎ上げてくださって、自分はスキー靴だけを背負って登った。山頂から滑降を始め黒部湖まで滑り降りるという行程であり、途中で雷鳥にも出合って、実に得難いスキー体験であった。そして、雄山から稜線沿いに劒岳への登山道が延びていたあの眺望を、この作品を読みながら懐かしく思い出していたのである。

 いわゆる山岳小説の第一人者である著者の、けれん味のない一直線の描き方は、その力強い筆致と併せて、忘れがたい読後感をもたらしてくれたのであった。

  2008年4月2日  読了