辻井喬 『父の肖像(下)』 (新潮文庫) | 還暦過ぎの文庫三昧

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 還暦を過ぎ、嘱託勤務となって時間的余裕も生まれたので、好きな読書に耽溺したいと考えています。文庫本を中心に心の赴くままに読んで、その感想を記録してゆきます。歴史・時代小説が好みですが、ジャンルにとらわれず、目に付いた本を手当たり次第に読んでゆく所存です。

 新潮文庫1月の新刊の下巻。西部王国を築き上げた堤康二郎(作中では楠次郎)の生涯に、息子である著者(本名堤清二 作中では楠恭次)が肉迫しようという作品であり、この下巻は戦後編という趣きである。

 戦争中については、楠次郎は中国大陸に進出する無謀を知っていたし、軍部を押さえる努力もしたようだが、結局は翼賛政治に巻き込まれ、そのため、戦後は公職追放になっている。だが、財閥解体などで既往の企業が意気消沈しているその時期に、彼は事業を大きく伸ばすことに成功した。

 作中の「私」こと楠恭次は、父への反発も手伝って共産党員として活動するが、結核を患い、八ヶ岳山麓の病院で1年半ほどの療養生活を送ることになる。父の庇護の元で恵まれた療養ができたわけで、ある意味、皮肉な現実である。

 その後、追放解除になった次郎が衆議院議長となり、回復した恭次はその秘書を努める。次郎のスキャンダルの揉み消しに奔走し、次郎が総理大臣の親書を持って訪米する際には、先乗りして大統領との会談をセットするなどの根回しもする。また、次郎の議長辞任後は、恭次は子会社の役員となるものの、ワンマンの次郎が苦境に立ったとき、彼の意に添うような提案をして、動いている。恭次は嫉妬深く猜疑心の強い次郎をよく知っていて、出過ぎないように配慮しつつ、有効な手を打ってゆくのだ。伊豆・箱根を巡る東急との争いなどはその最たるものであった。

 上巻では、次郎の事暦を年代記風に述べるのではなく、「私」の回想や推察が随時挿入され、描かれている時代が前後して読みづらかったのだが、この下巻では、次郎と恭次は同時代人であるため、「私」の体験がそのまま次郎と重なってくるので、とても読みやすい。と言うより、恭次に言及するページが圧倒的に多くなり、次郎の伝記というよりは、「私」の自分史のような色彩を帯びてきて、それが読者には共感できるのである。この小説、上巻より下巻のほうがはるかに面白い。

 著者は作中で、「私」「父」という表現と、「次郎」「恭次」という表現とを確信を持って使い分けているようだ。つまりは客観描写と主観描写の使い分けが混在しているということだろうが、そうしなければ父親との息詰まる関係を描けなかったのだろうと思う。

 もう一つのテーマである母親探しも、作中で次郎がその真実を知る部分があるが、それが恭次に知らされるわけではない。しかし、恭次イコール著者でもあるわけだから、著者としてはそれで満足なのだろう。

 もっと西部グループの事業展開を詳述して欲しかったようにも思うが、楠次郎のこれはこれで筋の通った真摯な生き方に触れ、久しぶりに骨格のしっかりした文学作品を読むことができて、素直に感動している。

  2007年1月10日 読了