御朱印の整理をしていたら
いくつかアップしていないお寺があったので
またまた覚書としてになりますが
アップいたします。


京都、大徳寺です。

応仁の乱の後、大徳寺は
一休さんのモデルとなった一休宗純が大阪・堺の豪商らの協力を得て復興しました。

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その後も豊臣秀吉など諸大名も多くの寄付を行い、江戸時代初期頃には現在の形になりました。

三門、仏殿、法堂(はっとう)、方丈などの主要な建物は、その造りや配置に至るまで禅宗の典型的な寺院の体裁を整えています。

また、大徳寺の境内には20余りの建物がありますが、見学できるものは限られています。


大徳寺は、戦国時代の茶人として有名な千利休ゆかりの地です。
秀吉の怒りを招き、利休切腹のきっかけとなった三門は、この大徳寺の三門です。

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大徳寺とつながりが深かった利休は、古くなった大徳寺の山門を改修するにあたり資金援助を行いました。

三門が完成すると大徳寺の住職であった古渓宗陳(こけいそうちん)が、利休に対する感謝の意を表するために利休の木造を造り、それを三門の上に安置しました。

ところが、それに対して秀吉がひどく怒ります。

「高貴な方が通る三門の上に草履をはいた利休の木造を置くということは、高貴な方の頭を踏みつける行為と同じである。非常に無礼な行為だ!」

そして、天正19年2月28日に千利休は切腹させられたのです。


御朱印
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正式名(龍宝山 大徳寺)
本尊(釈迦如来)
宗派(臨済宗大徳寺派)
開基 (宗峰妙超  (しゅうほうみょうちょう))
創建年(正和4年(1315年))
住所(京都府京都市北区紫野大徳寺町53)


ここは娘が大学卒業時、京都を離れるときに
思い出としてどこに行きたい?
って聞くと、お寺に行きたいと言うので
近くの大徳寺に来ました。
来たものの実は拝観できないとわかり、御朱印だけいただいて帰って来ました。

長女も京都の大学でしたが
その頃は今のようなお寺好きでも
御朱印にも興味がなかったので
ほとんどお寺にはいきませんでしたが
三女のときは、
入学の時に平野神社がスタート。
卒業は、この大徳寺で
お・わ・り。
考えてみると四年間は、
寺社=御朱印=三女
とても思い出深く、とても懐かしくなりました。