父の思い出 ④無念の死 |     みやこわすれの料理・つれづれ記

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  80歳まで現役で頑張ると言い、周囲も当然そう思っていた父が、67歳の


時に簡単な心臓弁膜症になりました。 心臓の弁が、はずれかけたのです。


東京で入院してくれたら、1か月で元気に復帰できたのに・・・。


 

郷土愛の強い父は、「どうして、松阪まで帰ったか、わからない・・・」と松阪まで


フラフラで帰ってしまいました。


入院の報告を受けて、私が飛んで帰ると、父はとても元気で 「大切な子供達を


置いて、こんな所まで何してるんや!さっさと帰れ!」 と威勢よく、私も 「たいし


なくてよかった・・・」 と、とんぼ帰りするぐらいでした。


 

それが半月もしないうちに、妹から泣きながら電話が入り、「お父さんが、あと


半月もしたら死ぬんやって。 早く帰ってきて!」と・・・。


 

私はすぐ自分もかかっている東京の日赤病院へ行き、ことの次第を専門の


教授に説明したら、「また、あのM大学病院ですか。 血液ミスにまちがいありま


せん。 ご家族の要請があれば、三重県でもどこでも行きます。 名古屋大学


病院でも動くでしょう」 「血液ミスのあと、1か月も生きながらえてみえるのは、


お父様の精神力以外の何物でもありません」 と言われ、「東京なら、とっくに


裁判になってますよ」 ということでした。


   

  私は、私立中学受験の息子を気にしながらも、津のM大学病院へ飛んで


行き、主治医が一度も顔を見せたことがなく、ぺーぺーのインターンしか来ない


というM大病院の父につきそい、そのあまりの変わりように愕然としました。


廊下で、ペーペーの医者に 「血液ミスでしょう 」 と疑問を投げつけました。


彼は 「ご家族の方なら、当然そう思われるでしょう。 否定はしません 」と言いま


たが、その後、医局で大騒ぎになったとか・・・。


 

なんせ、保守的な三重県のこと。 私も、それまでM大学病院が三重県で一番


いい病院だと信じていましたから・・・。


 

  その夜11時過ぎに父のつきそいをして、疲れて帰ってくると、父の兄で、


三重県で権力を持っている叔父が待ち構えていて、夜中なのに、大声で「お前


は、次期社長夫人としてあるまじき行為をした! 日赤のどこのどいつが言いや


がったんだ!」 と日頃の、紳士的な叔父とは、うって変わって怒鳴りあう始末。


私が 「血液ミスですか?と疑問を呈したことがですか?」 と尋ねると、「そうだ!


責めるなら、M大学病院へ移した俺を責めろ!」 と、とても感情的になっていま


た。


   

私は主人に、父が存命中に、日赤の教授を三重県に派遣要請してくれるよう


懇願して、「そうしても、お父さんの死は止めれないけれど、そこまでしたんだか


ら・・と、私の気持ちがおさまるかもしれない」 と訴えました。


 

父が亡くなっても、一時的にしろ、新聞に 「M大学病院の血液ミスで患者死亡」


いう記事は、残ったはずですから・・・。


 

でも主人は、叔父の顔色を伺い、私の願いを聞いてくれませんでした。


とても、悔やまれます。


   

叔父との関係が悪くなり、親戚にM大学病院の助教授もいたせいで、私と子供


達は、お通夜にもお葬式にも出れませんでした。


もちろん、社葬には子供らと出席しましたけど・・・。


 

だから、私は父とお別れしてないので、今だに父が死んだという実感がなく、


新居で毎日遺影に手を合わせ、一緒に生活しているような気がしています。


父にこの家を見せたかったし、この料理も食べさせたかったといつも思いなが


ら・・・・・・・


    

  ちなみに、私が涙で津駅でM大学病院の場所がどこかわからなかった時、


上品紳士が声をかけて教えて下さり、「自分の兄もM大学病院で1年前に


血液ミスで亡くしました。 抗議したのですが、うやむやにされてしまいました。


僕の分も、頑張って下さい」 と言われました。


外務省にお勤めとかで、あとで友人に 「なんで名刺をいただいとかなかった


の?」 と責められましたが、当時の私にはそんな余裕はありませんでした。


 

そして泣きながらタクシーへ乗ったら、運転手さんが 「なんや、またM大学病院


血液ミスかいな 」と言うので、驚いて聞くと、「姉が1か月前に、M大学病院で


血液ミスで亡くなったんや」 と。 偶然にしては多すぎると思います。・・・


   

  私は半月の間、毎日のように必死で、ひそかに津支局の朝日と日経新聞の


記者に、事の全てを東京から電話で話していて、もし万一のことがあったら、


M大学病院の主治医の所へ取材に行って欲しい旨、頼んでありました。


  

67歳の若さで、父が無念の死をとげた時に、記者から電話があり 「取材に


行きましたが、名刺を投げ返されました。 医者として、あるまじき行為です。


ただ、医療ミスの実証は不可能なので残念ですが・・・」 ということでした。


   

父が死んでから、私はもぬけのからのような精神状態になりました・・・。


・・・ 最近ようやく元気になってきました。 長い空白期でした ・・・。


父が私を守ってくれていたんだと、つくづく実感しました。