子どもが大人になるとき | チャクラひらいてる?―Baby Yogaでヨガ的育児・育自日記

子どもが大人になるとき

「大人になるって、なんだろう?」
そんなことを、いくつになっても時々考えてしまいます。
わたしは大人なのかな?
ううん、そうでもないな、とか。

10代の頃、今のわたしの年になる頃には、れっきとした大人になっていて
「おかあさん」になったら、なんだかちゃんとした人間になるものだと思っていた。
それはきっと、わたしの母が、今のわたしの年の頃にはすごくしっかりした大人に見えたから。

今のわたしは、どうだろう?
できないことばっかりで、いつもみんなに助けられてる。
忘れ物も多いし、道にもよく迷う。
「ゆっくりゆきちゃん」だった少女時代となんにもかわらない。

お母さんだけれど、娘でもあるし、一人の女の子みたいな気分になることもある。
ときどき偉そうにヨガの講義なんかしちゃったりして、高尚なお話をしたりすることもある。
でも、子どもと一緒に遊んでいるときは、6歳の女の子になった気分だし、
大好きないちごとチョコレートは、子どもみたいに独り占めしたくなる。
ふだん、講座では、「分かち合うこと」の大切さ、について話したりしているのに。
まったく、矛盾だらけだ。
でもお酒だって飲めるし、車の運転だってできる。
クレジットカードでお買い物したり、外国にだっていける。
名刺も立派な時計も、香水だってもっている。


「わたし、大人なのかな?」


ときどき、わからなくなる。


大人になるってことが、日本の文化のなかで公式の
・中学校や高校を卒業する
・仕事に就く
・運転免許をもっている
・大学生
・18歳になる
・成人する
・結婚する

などをパスすることだとしたら、
私はやっぱりれっきとした大人。


成人:人と成る
だからね。20歳になったら、ひとりの人間として自立しなくてはならない。
それは精神的にも生活においても。
わかっているけど、大人になんか成りたくないなって思うところもあったりする。


私と同じように、
大人と子どもの境目にいるあなたへ
大好きな本から、一部紹介します。

_____________

あなたは成長しなくては成らない運命にある。
あなたはその生命を伝えなくてはならない。
生き残るためには、どうしても成長しなくてはならないのだ。
なるほど誰もが肉体的には成長していく。
力もついていき、やりたいことが歳月とともにできるようになっていく。

われわれは成長することを拒否することはできない。
そしていくつもの成長と熟成の段階を経た後に、われわれは人生の最終地点であるところの「死」にたどりつくのである。

子どもであった自分を脱ぎ捨てて、私たちは大人の世界へと入っていかなくてはならない。
極論を畏れず言うならば、人生にはただ二つの段階しかないとも言えるはずだ。

若い頃と、年齢(とし)をとった頃、その二つ。
若い頃は痛ましいほどに長くは続かない。
年齢を重ねるに従って目の前に見えてくる未来へと向かう道は、どこかつづらおりの山道にも似て、いつまでも、どこまでも、曲がりくねって果てしなく続くのだ。

だが、誰もが自分の足で歩き始めなければ遠くまでいけないことを知っている。
そしてなんであれ歩き始めた者だけの目に、やがては旅の最終目的地が見えてくることも、私たちは誰もが心の中では知っていることなのである。

大人の世界には、知らなくてもよかったことがたくさん待ち構えていることは否定できない。
現代の詩人や予言者たちは、今の子どもたち、すなわち未来の大人たちの引き継ぐこの世界が、音をたてて破壊へと向かっていると警告している。
犯罪、暴力、飢え、人口増加、大量虐殺、環境破壊、力と力の対立、底の見えたエネルギー資源、公害、紺質効果による異常気象、放射能汚染、核戦争による生命の絶滅。
大人の世界は、こうした諸々の要因によるストレスで満ちあふれている。

しかし、遅かれ早かれそうしたもののいっさいに、誰もがやがて直面しなくてはならなくなるのである。逃げることは全く不可能だ。
だからこそ、私たちはひとりひとりがそのなかで生き延びる術を見つける必要があるのではないだろうか?


1988年 北山耕平「ネイティブ・マインド」より



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