【小説:小早川秀秋】領地復興 | 関ヶ原の合戦を演出した小早川秀秋

【小説:小早川秀秋】領地復興

 近江・佐和山城に三成は近づくこともでき
ず逃亡を続けていた。城には三成の留守を二
千人の兵が死を覚悟して守りぬこうと籠城し
ていた。
 秀秋の部隊は朽木元綱、脇坂安治などの部
隊と共に城壁に迫った。しかし籠城兵の防戦
に死傷者が続出した。
 秀秋の部隊には関ヶ原の合戦が終わった直
後から不穏な動きをする一団があった。それ
は家康から押し付けられた浪人の中にいた家
康の家臣たちだった。その者らのことを秀秋
はうすうす感づいていた。そこでこの時とば
かりにこの一団を先鋒に選び城の石垣を登ら
せ死傷者をだすことになったのだ。
 城は一日では陥落せず、二日目の総攻撃に
抵抗しきれなくなった籠城兵が火を放ち、城
は焼け落ちた。
 やがて逃げていた三成も捕らえられ、さら
し者にされた挙句に六条河原で斬首にされた。
 天下を奪いあう動乱も家康が大坂城に入る
ことで全てが終わった。

 関ヶ原の合戦後の論功行賞で秀秋には備前
と美作の五十一万石が与えられた。
 前の所領、筑前、筑後、肥後の三十万石と
比べれば大幅な加増となったが、備前と美作
は以前の領主、宇喜多秀家が朝鮮出兵に駆り
出されて政務が滞り疲弊していた。
 領民は働く気をなくし田畑に草が茂り、道
はぬかるみ、岡山城でさえ廃城のようになっ
ていた。
 家康はあらかじめ備前と美作が疲弊してい
ることを知っていて、それを餌に秀秋が東軍
に味方すれば与えると約束したのだ。仮に秀
秋が味方し勝利しても備前と美作なら惜しく
はないと考えていた。そしていずれ秀秋が疲
弊した領地をもてあまし、さらに悪化させれ
ば、それを理由に処罰し領地を取り上げるつ
もりでいた。
(小僧が何も知らんで……。お前のものはす
べてわしの手の中じゃ)
 ところが備前に移った秀秋は名を秀詮(ひ
であき)と改め、まず荒廃していた岡山城を
改築し以前の二倍の外堀をわずか二十日間で
完成させた。そして検地の実施、寺社の復興、
道の改修、農地の整備などをおこない、急速
に近代化させていった。これらは秀吉の政策
と藤原惺窩の教えを手本にしていた。
 秀詮は家康の全国支配の中で秀吉の政治を
継承し、惺窩から学んだ独立自治という桃源
郷の実現を目指していたのだ。
 こうした秀詮の動きは家康の耳に逐一入っ
ていた。
 関ヶ原の合戦後、秀詮らの城攻めで半壊し
た伏見城は改築され、家康が移っていた。そ
こで報告を聞いた家康は驚きをとおりこして
恐怖を感じた。
 秀詮の戦での能力は身をもって思い知らさ
れたが、まさか所領を統治する能力まで優れ
ているとは思ってもみなかったからだ。そし
て、真っ先に岡山城に手をつけ防備を固めた
ことは、自分や跡を継ぐ秀忠が全国支配する
うえで最大の障害になることは容易に想像で
きた。
 秀詮は豊臣家と血縁関係者でもあり、将来、
豊臣秀頼と手を組み、豊臣政権再興に担ぎ出
されるかもしれない。すぐにでも討伐したい
がしかし、秀詮は戦功をあげているので、お
おっぴらに殺しては諸大名の忠節心が得られ
なくなる。そもそも秀詮と戦をすれば多大の
損害は免れない。
 いずれ秀頼と戦うことも考えれば、戦力を
使わない方法を選ぶのは自然の成り行きだっ
た。