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自作の物語の一覧です。              〒731-0142  
                             広島県広島市安佐南区高取南2丁目33-11     
                  

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2011年03月31日(木) 20時50分00秒

小早川秀秋の一覧

テーマ:小早川秀秋

English Here


【逆境に勝つ孫子(5月14日更新)

 計篇 

  戦争は国の存亡  5つの備え  武器とは  相手をかく乱する

  戦争に勝つ者

 作戦篇

  長期戦  敵地調達  内部崩壊

 謀攻篇

  自滅させる  謀略で優位に  敵を魅惑する  補佐役  勝機を知る

 形篇

  勝てない態勢  勝って当たり前  勝負に集中

 勢篇

  勢いを生む  奇法と正法  勢いと時期  勢いを増す

 虚実篇

  油断させる  無形の圧力  心理戦  単独行動  条件を整える  無形の水

 軍争篇
  迂直の計  遠征の難しさ  郷に入る  合図の道具  大衆操作  戦争手順
 九変篇
  行動パターン  利害は一体  将軍の心得
 行軍篇
  山川沢地  軍の習性  ささいな兆候  政治腐敗  人心掌握術
 地形篇
  地形と六曜  指導者の限界  領土に価値はない  教育方法
 九地篇
  九つの症状  受け流す術  領土保全  敵を味方に  将軍の役割  水と油を混ぜる
  領民を動かす  戦争の終結
 火攻篇
  宣伝    熱気のある火



【あの堺屋太一先生もこのサイトを参照?】



【映画制作への道】


     ムービープロセッサ(ムープロ)とは   サンプルスクリプトを実行する

     ムープロに欲しい機能   理想と現実  作り替えたムープロソフト
     パーティクルは使える   関ヶ原の合戦を検証   松尾山には城があった

     小早川秀秋の無血入城   陣形が整わない東軍   思わぬ苦戦
     小早川秀秋の出陣   苦戦する小早川秀秋の部隊   使いやすくなったBlender

     今度はモーションパスを使ってみた   ゲームエンジンを試す   まさしくムープロのUnity


【関ヶ原の合戦の疑問】


【すべての鍵を握る松尾山城】


小早川秀秋の生きた時代を知るための基礎知識

【織田信長の奇門遁甲】


【桃太郎のモデルは小早川秀秋を裏付ける新事実】


関ヶ原の合戦を検証する動画を作ってみました。

関ヶ原の合戦、検証動画

音声での解説があります。ご覧ください。


以下は、石田三成の軍資金の行方を追加した最新版です。(2010/07/01現在)


【戦 ※小早川秀秋篇※】全文公開)

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【戦 ※林羅山篇※】(全文公開)

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また、以下のショップでは小早川秀秋関連のTシャツやグッズを販

売しています。その他、面白いイラストのTシャツやグッズもあります。

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岡山瑞雲寺にある秀秋坐像写真


【戦(イクサ)-小早川秀秋篇-と-林羅山篇-】の全文(ワード形式のみ)
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【戦(イクサ)-小早川秀秋篇-】の全文(ワード形式とテキスト形式)
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【戦(イクサ)-林羅山篇-】の全文(ワード形式とテキスト形式)
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【小説・戦(イクサ)】

  こちらに移動しました。 → 小説・戦(イクサ)の目次


【鎧兜甲冑ギャラリー】 

織田信長  森蘭丸  徳川家康  本多忠勝  真田幸村  山内一豊  

武田信玄 上杉謙信  伊達政宗  赤備  直江兼続  山本勘助


【小早川秀秋幻記】や旧作品はこちら

http://ameblo.jp/ykblog/entry-10032641846.html

【小早川秀秋の年表】

【秀秋と老子】

【参考文献】  【小早川秀秋関係/関ヶ原/戦国時代/兵法】リンク集

2010年11月28日(日) 21時20分39秒

小説・戦(イクサ)の目次

テーマ:小早川秀秋

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以下は、石田三成の軍資金の行方を追加した最新版です。(2010/07/01現在)


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【小説:小早川秀秋】(完結)

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異変 本能寺の変 清洲会議 茶頭宗易 滝川一益 柴田勝家 北ノ庄城  

宣伝力 三成と吉継 徳川家康 小牧の戦 信長転生 分断 宗易の説得

金吾秀俊 九州征伐 家康臣従 九州平定 聚楽第 鶴松丸 丹波亀山

小田原征伐 天下統一 信長と利休 延命の呪術 利休の首 思春期

藤原惺窩 秀吉を呪う 文禄の役 日本の苦戦 休戦 再び養子へ 秀次事件

秀秋の処分 総大将秀秋 総大将の権限 秀秋出陣 蔚山城攻防 太平の世

初陣の手柄 孫子兵法 秀吉の死 家康と三成 リーフデ号 最強の武器

決起 陣羽織 伏見城籠城 決戦の地 アダムス 無血入城 三成の誤算

徳川家臣 寝返る者 逃げ道 西軍の四隊 吉継自刃 逆転勝利 領地復興

秀詮の発狂 秘策 杉原重治 秀詮の死 身代わり

  


【小説:羅山】(完結)

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謁見 悪夢1 悪夢2 悪夢3 悪夢4 悪夢5 意外な応え 山荘 稲葉
長嘯子 毛利家 秘策 林家 欺く 悪政 逃亡 京へ 信澄 福  
連絡 清原秀賢 問答 確執 災いの芽 前兆 菅得庵 松永貞徳 球形論争

幻惑 妙貞問答 学問の限界 高熱 病魔除け 道春 駿河 江戸
器量 世継ぎ 道春の妻 以心崇伝 易姓革命 秀頼対面 淀殿
遁甲 外交文書 一心同体 キリシタン 方広寺梵鐘 片桐且元
手練手管 ひと芝居 前代未聞 抜け穴 豊臣家の誇り 法師武者
大坂城包囲 秀忠出馬 正成対面 東の帝 真田 罵声 真田と淀

毛利勝永 四者密談 秀頼の本心 大蔵一覧 国分の攻防 勇猛戦
桶狭間 二つの牙 忠昌出陣 秀頼脱出 千の説得 武士の終焉
糒倉 自然の力 諸法度 目覚めた龍 群書治要 家康の死
道春の帰宅 神号論争 松平忠輝 日光改葬 和子と黄金絵巻
理想の国 石川丈山 武士の知恵 明と暗 書の鑑定 和子の入内
御殿の和子 融和 道春の凶事 家光 家光の心意 天下泰平の道

秀忠と家光 将軍、家光 家光の側近 家光の初仕事 貿易の暗雲

天海の脅威 道春再び 戦の備え 天皇の行幸 お江与の死 復帰
難題 皇子の死 天皇と春日局 天皇の譲位 家光の説得 忍ヶ岡の私塾
秀忠の憂い 忠長の蟄居 追号論争 天海封じ 崇伝の死 忠長、自害
保科正之 目指す世 明の衰退 春斎登城 国書争論 晴れ舞台
家光の苦境 非礼な対応 家光の子 島原騒然 島原の乱 東舟の死

振と千代 後継 待望の日 苦境の作業 時代の峠 二人の死
明の滅亡 春斎の飛躍 援軍要請 大奥の争い 長嘯子の死 林家の喜び

家光の死 由井正雪 浪人の騒乱 亀の病 亀の死 道春の最後


【小早川秀秋の年表】

【参考文献】  【小早川秀秋関係/関ヶ原/戦国時代/兵法】リンク集


2010年11月28日(日) 21時16分19秒

【あの堺屋太一先生もこのサイトを参照?】

テーマ:小早川秀秋
 2010年11月28日付の中国新聞(多数の
地方新聞で同時連載)に掲載の連載小説「三
人の二代目」(堺屋太一作)・442・「天下統一
ー仕上げの工程(3)」の抜粋

 それにもう一つ、千利休が「名器」の折り紙を
付けた茶道具の販売益金があった。
 秀吉の御機嫌を取りたい大名や豪商は、競っ
て利休ブランドの茶道具を買い入れた。もとは
といえば二束三文の今焼き茶碗や竹べらを何
百両で売るのだから利益は大きい。その利益
の七、八割は、利休の保護者の大和大納言秀
長の懐に入る仕掛けになっている。
 秀長は、このブランド商法で得た金銀の一部
を、秀吉の金賦りのために提供した。

 今まで千利休といえば、茶の湯のことばかり
で、その本当の役割を指摘した小説等はなかっ
た。
 私がそのことを書いて訴えたことが、ようやく
プロの小説家にも認識されるようになったよう
だ。

 私が上記より以前に書いていた「茶頭宗易」

 宗易は商いで国を治めるとまで言われた堺
商人の代表として信長に召抱えられていた。
その宗易は道楽の一つだった茶の湯を改革し、
わび茶を完成させた茶人として知られている
が、どこにでもある材料で茶器を作り、それを
金銀よりも価値のある宝物に高めた錬金術
師のような側面があった。
 信長は宗易の考えを実行することで、金銀
を手に入れるのが難しい不利な領地にありな
がら、どこでも誰にでも作れる茶器をあたか
も価値のあるものに見せかけ流通させること
で金銀に換え、兵糧や鉄砲の調達にあてたり、
茶器そのものを戦で手柄を上げた者に褒美と
して与えたりすることで軍資金を減らさず、増
やすことに成功した。これが強大な隣国に囲
まれていた尾張の空け者、信長を天下統一
にまで導いた原動力の一つだった。
 信長は宗易のこうした才能に目をつけ、茶
頭にして茶の湯を広めさせたのだ。そして信
長自身も高価な茶器を買いあさり、そのこと
を「名器狩り」と揶揄(やゆ)されたが、これで
茶の湯が注目され、公家や商人も加わって
茶器の値段は高騰した。こうして信長は茶の
湯で莫大な利益を得ると同時に公家との交流
を深め、潤った堺商人から支持され鉄砲な
どを買い集めることができたのだ。
 秀吉も宗易を召抱えることで、公家と堺商
人をつなぎとめて関係を深めることができた。
2010年07月01日(木) 22時29分11秒

小早川秀秋の一覧

テーマ:小早川秀秋

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徳川家康戦で、勝つと分かって寝返った者に領地を与えるだろうか?


【関ヶ原の合戦の疑問】 (11月4日更新)


【すべての鍵を握る松尾山城】


小早川秀秋の生きた時代を知るための基礎知識

【織田信長の奇門遁甲】


【桃太郎のモデルは小早川秀秋を裏付ける新事実】


関ヶ原の合戦を検証する動画を作ってみました。

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【戦(イクサ)-小早川秀秋篇-】(2010/4/1更新)

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【小説:小早川秀秋】 【戦(イクサ)-小早川秀秋篇-】と同じ内容 (完結)

異変  本能寺の変  清洲会議  茶頭宗易  滝川一益  柴田勝家  北ノ庄城   宣伝力

三成と吉継  徳川家康  小牧の戦  信長転生  分断  宗易の説得  金吾秀俊

九州征伐  家康臣従  九州平定  聚楽第  鶴松丸  丹波亀山  小田原征伐

天下統一  信長と利休  延命の呪術  利休の首  思春期  藤原惺窩  秀吉を呪う

文禄の役  日本の苦戦  休戦  再び養子へ  秀次事件  秀秋の処分  総大将秀秋

総大将の権限  秀秋出陣  蔚山城攻防  太平の世  初陣の手柄  孫子兵法  秀吉の死

家康と三成  リーフデ号  最強の武器  決起  陣羽織  伏見城籠城  決戦の地

アダムス  無血入城  三成の誤算  徳川家臣  寝返る者  逃げ道  西軍の四隊

吉継自刃  逆転勝利  領地復興  秀詮の発狂  秘策  杉原重治  秀詮の死  身代わり



【小説:羅山】(11月29日完結)

謁見   悪夢1   悪夢2   悪夢3   悪夢4   悪夢5   意外な応え   山荘   稲葉

長嘯子  毛利家   秘策   林家   欺く   悪政   逃亡   京へ   信澄   福  

連絡   清原秀賢  問答   確執   災いの芽   前兆   菅得庵   松永貞徳   球形論争

幻惑   妙貞問答  学問の限界   高熱   病魔除け   道春   駿河   江戸    器量

世継ぎ   道春の妻  以心崇伝   易姓革命   秀頼対面   淀殿   遁甲   外交文書

一心同体   キリシタン   方広寺梵鐘   片桐且元   手練手管   ひと芝居   前代未聞

抜け穴   豊臣家の誇り   法師武者   大坂城包囲   秀忠出馬   正成対面   東の帝

真田   罵声   真田と淀  毛利勝永   四者密談   秀頼の本心   大蔵一覧   国分の攻防

勇猛戦   桶狭間  二つの牙   忠昌出陣   秀頼脱出   千の説得   武士の終焉   糒倉

自然の力  諸法度   目覚めた龍   群書治要   家康の死   道春の帰宅   神号論争

松平忠輝  日光改葬   和子と黄金絵巻   理想の国   石川丈山   武士の知恵   明と暗

書の鑑定  和子の入内   御殿の和子   融和   道春の凶事   家光   家光の心意

天下泰平の道  秀忠と家光   将軍、家光   家光の側近   家光の初仕事   貿易の暗雲

天海の脅威  道春再び   戦の備え   天皇の行幸   お江与の死   復帰   難題

皇子の死  天皇と春日局   天皇の譲位   家光の説得   忍ヶ岡の私塾   秀忠の憂い

忠長の蟄居  追号論争   天海封じ   崇伝の死   忠長、自害   保科正之   目指す世

明の衰退  春斎登城   国書争論   晴れ舞台   家光の苦境   非礼な対応  家光の子

島原騒然  島原の乱  東舟の死  振と千代  後継  待望の日  苦境の作業  時代の峠

二人の死  明の滅亡  春斎の飛躍  援軍要請  大奥の争い  長嘯子の死  林家の喜び

家光の死  由井正雪  浪人の騒乱  亀の病  亀の死 道春の最後



【鎧兜甲冑ギャラリー】 

織田信長   森蘭丸   徳川家康   本多忠勝   真田幸村   山内一豊   武田信玄

上杉謙信   伊達政宗   赤備   直江兼続   山本勘助


【小早川秀秋幻記】や旧作品はこちら

http://ameblo.jp/ykblog/entry-10032641846.html

【小早川秀秋の年表】

【秀秋と老子】

【参考文献】  【小早川秀秋関係/関ヶ原/戦国時代/兵法】リンク集

2010年04月18日(日) 21時04分14秒

【秀秋と老子】

テーマ:小早川秀秋
【秀秋と老子】

1.認知   2.相反するもの   3.争いの素   4.無限のつながり   5.無分別   6.無尽蔵

7.永く保つ秘けつ   8.水形   9.引き際   10.反省   11.空間の利用   12.幻惑

13.感情移入   14.無知無感   15.無垢   16.静観   17.愚鈍   18.結果の本質

19.有効利用   20.判断材料   21.跡継ぎ   22.自然体   23.流体力   24.過剰

25.未知   26.隠れた本質   27.適材適所   28.窪みに宿る   29.無駄な努力

30.手に余るモノ   31.諸刃の刃   32.奇正   33.役目   34.受け身   35.有欲

36.加減   37.独占   38.対人関係   39.目のつけ所   40.軟弱   41.道理   42.二面性

43.女性   44.保持力   45.見極める   46.失敗の備え   47.感性   48.一芸

49.芯を持つ   50.死   51.順序   52.目標   53.苦楽   54.樹を観る   55.幼稚

56.地味   57.簡易   58.放任   59.未完   60.察知   61.分析   62.死生力   63.些細

64.違う視点   65.行動基準   66.指揮   67.三つの貴重なモノ   68.間合い   69.即決

70.周知   71.知識   72.個の集結   73.勇気   74.専門   75.生きる希望   76.変化

77.隠遁   78.不惑   79.仲裁   80.自給自足   81.交渉 終わり

【秀秋と老子】の全文(ワード形式)
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2010年01月03日(日) 20時54分16秒

【織田信長の奇門遁甲】

テーマ:小早川秀秋
「黄帝内経」という古代中国の医学書がある。
この医学書は今でも漢方薬や鍼灸の学習書と
して利用されている。その中で「子午流注」
と「霊亀八法」という病気の治療をするのに
効果的な日時を調べる方法が書かれている。
これを利用したのが、三国志で黄巾賊の乱を
指揮した太平道の首領、張角で、庶民の病を
治し信頼を得ていた。
 中国では人体も大地と同じものという考え
方がある。張角は戦術として「霊亀八法」な
どを応用し戦ったとされている。それがやが
て「八門金鎖の陣」として知られるようにな
り、諸葛孔明によって「奇門遁甲」という変
幻自在な戦術として体系化されたと言われて
いる。
 これが後に、城を築城する場所はどこがい
いか、都市の区画はどう整備すればいいか、
家の向きはどちら向きがいいかなどを調べる
風水に発展していく。
 風水は中国が乾燥しやすい環境のため病気
が蔓延しやすい。そこで湿気を部屋に取り込
むため川や池など水の位置が重要になってく
る。この考えを湿気の多い日本にそのまま当
てはめても役に立たない。そもそも置物の色
や位置など運勢とはまったく関係ない。
 以上は、空想の部分もあり、戦術というよ
り占術としてよく知られるようになった。

「奇門遁甲」とは、いつどの方角から相手を
攻めれば勝てるか、また、いつどの方角に相
手をおびき寄せて奇襲すればいいかを調べて
攻略する戦術だとされている。これが実際に
効果があったかどうか分からないが、自分の
都合のいい日時や場所に敵がやって来て、こ
ちらの思い通りに行動してくれるのであれば、
わざわざ「奇門遁甲」を使う必要はないと思
う。
 モンゴルの覇者、チンギス・ハーンは敵と
しばらく戦って、敗走すると見せかけ、伏兵
のいる場所におびき寄せて攻撃した。これを
いちいち占っていては、臨機応変な戦いはで
きず、また自分の勝ち目のない日に敵が奇襲
することもありうる。
「奇門遁甲」を使って負け知らずと言われた
諸葛孔明は、五丈原の戦いで司馬仲達を何度
もおびき出そうとしたが相手にされず、病に
倒れ死亡した。どうも攻撃には使えなかった
ようだ。
 ところが守備にも攻撃にも使える「奇門遁
甲」がある。

 チンギス・ハーンの後世、サマルカンドを
支配したチムールは、それまでの部隊編成が
左翼、中央、右翼の3部隊編成だったのを左
翼前衛、左翼後衛、中央前衛、中央後衛、右
翼前衛、右翼後衛と中央の最後尾に総司令軍
をおく7部隊編成にした。(下図)

         □□□
   □□□ → □□□
          □

 これによって後衛の部隊が自由に移動でき
るようになり、前衛の部隊が相手の動きを封
じ、後衛の部隊が攻めやすい敵部隊に集中し
たり味方を助けに移動することができた。ま
た、チムールは右翼に最強の部隊を当てた。
これは騎馬で矢を射るのに右翼から攻撃する
ほうが都合がいいからで、左翼の部隊が敵の
右翼をおさえている間に、いっきに右翼が攻
めこみ、敵の左翼、中央、右翼を崩していっ
た。

 これを応用して、前衛四方向、後衛四方向
にしたのが下図の八陣図。

     □     ◇   ◇
     □   →  ◇ ◇
   □□*□□     *
     □   ←  ◇ ◇
     □  1  ◇   ◇ 4
          
    ↓ ↑     ↑ ↓

     □    
    ◇ ◇  → ◇ □ ◇
   □ * □    □*□
    ◇ ◇  ← ◇ □ ◇
     □  2        3

 図1と図4は、あえて隙を作ることで敵を
おびき寄せ、後衛の部隊が入ってきた敵の側
面を攻撃し、前衛の部隊が中に入った敵の背
後を攻撃する。
 図2の前衛と後衛は図3のように変わるこ
ともでき、隣り合う部隊はそれぞれ協力して
闘える。

 日本では織田信長が複数の敵を同時に攻撃
する「付城」という戦術を使った。
「付城」は敵の戦闘地域に進軍し、敵を城ま
で徐々に追いつめ籠城させ、その城の周りに
砦をいくつも築き包囲する。(この砦を付城
という)これを各方面に担当司令官を割り当
て同時に行なう。
 そのまま敵の戦力低下や降伏、飢えるのを
待つが、他の場所で決戦があるとき、最低限
の留守部隊を付城に残し、その他の多数の兵
が決戦場に集結し敵を撃破する。
 この戦術が成功するためには、付城に多数
の兵士がいるように見せかけ、部隊をすばや
く決戦場に移動する必要がある。

 付城はあくまでも仮の砦でしかない。

 これを実行していたのが信長の家臣だった
豊臣秀吉であり、明智光秀が本能寺の変を起
こした時、中国地方からすばやく移動したよ
うに見せかけ、天下をものにした。そのノウ
ハウは秀吉の家臣、石田三成にも受け継がれ
ていただろう。

 三成は慶長の朝鮮出兵の最中に秀吉が亡く
なり、戦いを終結させる時、残留している将
兵を速やかに撤退させている。また関ヶ原の
合戦でも事前に松尾山の城を修築させ、徳川
家康の移動を知ると速やかに鶴翼の陣をしい
たあたり、このノウハウを生かしているよう
に思う。ただ家康も本能寺の変の時に伊賀越
えをして逃げ延びたり、小牧・長久手の戦い
で敵の意表をついて現れたりと、このノウハ
ウを熟知し、その上、情報戦を得意としてい
たことが一枚上手だった。

 なおチムールも織田信長も「奇門遁甲」を
意識することなく、実戦で会得しているため、
これが「奇門遁甲」だとする根拠はどこにも
ない。

「奇門遁甲」を正攻法で相手の動きを封じ込
め(あるいはおびき出し)変幻自在な奇襲で
撃破するものだとしたら、チムールや織田信
長は「奇門遁甲」を使っていたと言えるので
はないだろうか。

おわり

--------------------
参考文献

鍼灸学講義
中医学院鍼灸教研組編 医林書局出版

八門人相事典
曽川 和翁著 学習研究社

チンギス・ハーン世界帝国の謎
川崎 淳之助著 日本文芸社

家康の天下取り 関ヶ原勝敗の研究
加来 耕三著 日本経済新聞社
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2009年11月09日(月) 21時03分35秒

【桃太郎のモデルは小早川秀秋を裏付ける新事実】

テーマ:小早川秀秋
 2009年11月8日に放送されたTBS
の番組「オレたち!クイズMAN」で桃太郎
に続編があると話題になっていたので調べて
みた。

 桃太郎の続編は色々あるようで、番組でも
紹介されていた「桃太郎元服姿」は江戸時代
中期の安永8年(1779年)に刊行された
もので、桃太郎が鬼ヶ島で鬼を退治して帰っ
た後、生き残った鬼たちは桃太郎を暗殺しよ
うと鬼の中で最も美しい娘の鬼を桃太郎の家
に召使として送り込んだ。しかし、娘の鬼は
桃太郎と一緒に暮らしているうちに恋心を抱
き暗殺をすることが出来ない。悩んだ娘の鬼
は自ら命を絶ってしまう。それを知った桃太
郎は、これ以降、鬼退治をしなくなった。

 これとは別に安永6年(1777年)に鱗形
屋孫兵衛の版によって刊行された黄表紙「桃
太郎後日噺」(朋誠堂喜三二作、恋川春町画)
というのもあり、桃太郎が鬼ヶ島から帰る時
に白鬼という子供の鬼を家来にして連れて帰
る。家ではお爺さんとお婆さんの他に下女の
お福が出迎える。その後、桃太郎と白鬼は元
服して、白鬼は鬼七と改名し、角を剃り落と
して薬種問屋に二十両で売る。これを知った
猿も元服して猿六と名乗り、下女のお福に恋
心を抱くが、お福は鬼七といい仲になる。そ
れに怒った猿六は、奉公人同士が密通するこ
とが罪になるので、桃太郎に進言する。桃太
郎は鬼七とお福を追放する。そして猿六もお
福に恋心を抱いていたことが分かったので同
罪だとして暇を出す。面白くない猿六は、ちょ
うどやって来た鬼七の許婚、鬼女姫に告げ口
して鬼七のもとへ行かせる。するとお福が怒
り、頭から角が生え、蛇身となり、逃げる鬼
七を追いかける。このことで鬼女姫は鬼七が
お福に殺されたと勘違いして自害。しかし、
鬼七が寺の鐘に隠れている間に桃太郎が犬を
連れてやって来て、お福を斬り倒し、犬は猿
六を殺す。

 私の書いた小説は、これらのことを知って
書いたわけではないが符合する部分がある。

 今、一般的に知られている桃太郎の物語は、
江戸時代中期に岡山でキビ団子が売り出され
た頃、宣伝に使われるようになり統一され広
まったと考えられる。(これ以前は各地に様々
な桃太郎の物語があった)

 この物語の最初にお爺さんが登場し、山に
柴刈りに行くが、お爺さんの役割がはっきり
しない。普通は田畑に行くだろうし、この場
面以降、お爺さんはいてもいなくてもよくな
る。
 初期の物語では百年に一度、実をつける不
老長寿の桃の木を管理するために、お爺さん
は山に行っていたらしい。それがなぜ柴刈り
になったかといえば、豊臣秀吉が以前、羽柴
秀吉と名乗っていたからで、これで柴刈りと
羽柴の「柴」が一致し、どうしてもお爺さん
を登場させて秀吉のことを伝え、桃太郎が何
者かを特定しやすくする必要があったと考え
られる。
 次に、お婆さんは川に洗濯に行くが、秀吉
の正室(おね)は北政所と呼ばれ、政所とは
家事をつかさどった所という意味もあり、洗
濯しているお婆さんとは北政所ではないかと
思われる。
 初期の桃太郎では、お婆さんは熟して落ち
た桃が川から流れてくるのを毎日見張り、よ
うやく流れてきた桃を拾ってお爺さんと一緒
に食べて若返り、それで産まれたのが桃太郎
で「実の子」だった。それが、川から流れて
来た桃から桃太郎が生まれる「養子」になっ
ている。これは小早川秀秋が秀吉と北政所の
養子として育てられたことに一致する。
 成長した桃太郎は初期では「三年寝太郎」
のようにぐうたらな生活をしていたが、突然、
鬼退治に行くと言いだす。これは鬼が村を荒
らすのに村人が困っていたという話もあるが、
唐突な気がする。
 秀秋は秀吉に慶長の朝鮮出兵を命じられた。
それも初陣なのにいきなり総大将としての出
兵で、これに一致する。
 桃太郎はお供として犬、猿、キジと出会い
キビ団子をあたえ家来にするが、秀秋の家臣
は小早川家、豊臣家の者がいて、一説には徳
川家からも監視役として仕えた者がいたとい
うことから、犬は小早川家、猿は豊臣家、キ
ジは徳川家と言えなくもない。
 犬猿の仲というように小早川家と豊臣家の
家臣は最初、仲が悪かっただろう。これら立
場の違うまとまりのない家来を統率するには
キビ団子のような魅力のあるものが必要だっ
た。それが桃源郷のような身分差別のない独
立自治を目指すことだったのではないだろう
か。
 桃太郎の桃は桃源郷の桃とも関係があると
言われている。
 やがて桃太郎は鬼ヶ島に渡る。そして鬼の
砦を攻撃し、鬼退治をするが、秀秋は加藤清
正が蔚山城に籠城して苦戦していたのを救出
に向かい、敵兵を攻撃して武勲をあげる。
 桃太郎は鬼から宝物を奪って帰るが、秀秋
の救出した加藤清正は日本の英雄で国の宝だ。
 秀吉も秀秋の活躍を聞いて最初は喜んでい
た。

「桃太郎元服姿」は関ヶ原の合戦以後、秀秋
が宇喜多秀家の所領していた備前と美作の五
十一万石に移り、荒廃していた岡山城を改築
し、以前の二倍の外堀をわずか二十日間で完
成させたり、検地の実施、寺社の復興、道の
改修、農地の整備などをおこない、急速に近
代化させていった。このことで徳川家康に疎
まれ暗殺されそうになった。秀秋は若くして
謎の死をとげたことになっている。しかし、
難を逃れて生きていることを示唆しているの
ではないだろうか。

「桃太郎後日噺」に登場する下女のお福は、
秀秋の家臣、稲葉正成の妻だった福(後の春
日局)と一致する。
 桃太郎は密通した鬼七とお福を追放するが、
秀秋が晩年に狂いだした時、正成と福は逃亡
している。その後、福は正成が浮気したこと
に怒り、離縁して徳川家光の乳母になったと
いう逸話があり、こうしたことを面白おかし
く物語にすることで桃太郎が秀秋だというこ
とを伝えようとしているのではないだろうか。

 江戸時代になって、秀秋のことには触れて
はいけない状態になったと思われる。そこで、
秀秋のことを桃太郎の物語に託して伝えよう
としていた人達がいたのではないだろうか。
 幕末に長州で倒幕運動に参加した者の中に
は秀秋の家臣の末裔が多くいたと言われてい
る。その討幕運動で亡くなった者を祀るのを
起源とする靖国神社には小早川秀秋の所有し
たと伝わる「三鍬形後立小星兜と紫糸威二枚
胴具足」がある。
 時が経てば英雄あつかいされる武将がいる。
しかし、秀秋は四百年経った現在でも、裏切
り者の汚名が消えないでいる。
2009年10月10日(土) 22時37分33秒

【小説:小早川秀秋】秀吉を呪う

テーマ:小早川秀秋
 天正十九年(一五九一年)八月五日
 わずか三歳で病死した鶴松丸は東福寺に移
された。あわれな老木のように打ちのめされ
た秀吉の脳裏に利休が書いた辞世の句がよぎっ
た。

 人生七十(年) りきいきとつ
 わがこの寶(宝)剣 租佛(仏)共に殺す
 ひっさぐるわが得具足の一太刀
 今この時ぞ天になげうつ

 信長よ、私は七十年の人生だったぞ、ざま 
あみろ

 私のこの茶器の価値に 信長は幻惑され、
やがて神仏を崇めず、自らが神のごとき振る
舞いをし始めた(これは秀吉も同じだ)

 だから私が茶の湯で得た情報を駆使して信
長を一撃で死に誘う(それは秀吉に天下を取
らせた)

 今、私が死んだとしても、他にこのこと
(秀吉の共謀)を知っている者が秀吉を苦し
めるだろう

 秀吉はこのように解釈していたが、しかし
信長暗殺に関して、誰が真相を知っていよう
と天下人になった秀吉には、もはやなんの脅
しにもならない。そこで別の解釈が浮かんで
きた。

 わしは七十年生きたぞ、どうじゃ
 わしの刃は誰だろうと切り捨てる
 受けてみよ、わしの会心の一撃を
 今から死んで天下人、秀吉を呪う

 秀吉は鶴松丸の死でそう思うようになって
いた。そして利休に対する怒りが前にもまし
てわいた。それは新たな天下取りの野望を呼
び起こした。
 翌日、秀吉は諸大名に朝鮮への出兵準備命
令を発した。これには皆、耳を疑った。
 何をもって兵を出すというのか大義名分が
ない。
 はるか昔、朝鮮の南端には任那(ミマナ)
という国があり日本府が置かれていたが朝鮮
での戦国時代に滅亡したといわれている。そ
れを今になって取り戻そうというのも無理が
ある。
 これは明らかに領地拡大のための侵略行為
だった。しかし今は秀吉を諌められる者がい
なかった。弟の秀長がいたら止められたもの
をと皆、落胆した。
 五奉行は秀吉が唯一話を聞きそうな北政所
に説得を願い出た。
 北政所は少し考えて「頃合いをみて話す」
とだけ言った。今すぐ話をすれば鶴松丸を死
に追いやったのは淀を側室にしたことを恨ん
でいる者と、ありもしないことを勘ぐられ、
余計に話がこじれると思ったからだ。

 秀吉は怒りがおさまると冷静に自問した。
(朝鮮出兵をつい口にしたが、これは単なる
思いつきだろうか。いや九州征伐の時、対馬
の宗義智を介して朝鮮王に服従を勧告したが
その返答がなかった。それが心の中にあり、
燃えかすのようにくすぶっていたのかもしれ
ない。しかし今、朝鮮を相手にしていればそ
の隙に異国がこの国を攻めてくるか。もし異
国が攻めてくるとしたら上陸するのは九州。
そうじゃ九州に強固な城を建て、その備えと
しよう。みておれ利休、お前の呪いなど跳ね
返してくれるわ)

 この年の九月には正式に朝鮮への出兵準備
命令がくだされ、十月には加藤清正が奉行と
なり、肥前に名護屋城の築城を始めた。
 十二月に入ってようやく北政所は秀吉に聞
いた。
「身は二つに裂けませぬが、日本と朝鮮のど
ちらにお住みになるので」
 すると秀吉は察したのか、関白を辞任して
朝鮮出兵に専念することにした。それを受け
た後陽成天皇は秀次を関白に任命した。
 いくら望んでも手に入らない関白の座が、
忘れた頃にポンと転がり込んでくる。
(運命とはあっけないものよ)
 秀次はため息をついた。

 肥前・名護屋城はわずか五ヶ月で完成した。
しかしその規模は大坂城に匹敵し、五層七重
の天守、多数の曲輪などを配置した頑強な要
塞であり、秀吉好みの金箔などで装飾された
豪華さも兼ね備えていた。
 城の周りには全国から集まる諸大名のため
に庭園などもある邸宅が建てられ、その数は
百二十棟を超えた。
 十六万人を超える将兵を目当ての店も並び、
各地から商人によって兵糧も運ばれた。
 皮肉にもこれによって戦続きで荒廃してい
た九州全体が急速に復興していった。
2009年10月10日(土) 22時36分04秒

【小説:小早川秀秋】藤原惺窩

テーマ:小早川秀秋
 秀吉の朱印状で外に出辛くなった秀俊は丹
波亀山城で退屈な日々を送っていた。そうし
たある日、一人の男がやって来た。
 男は名を藤原惺窩といい、歌道で名高い冷
泉家に生まれ、「新古今和歌集」の選者とし
て知られる歌人、藤原定家十二世の孫だった。
 惺窩は八歳の頃から播磨・龍野の景雲寺で
禅宗を学んだが、父と兄が大名の別所長治と
の争いで戦死して生家が没落すると京・相国
寺に入り僧侶となった。
 一時は父兄の仇を討とうと秀吉に訴えたこ
ともあったが叶わず寺に戻ったが、堕落して
いく他の僧侶を見るにつけ仏教の教えにも限
界を感じるようになった。そんな時、儒教に
触れ傾倒するようになり、気がつけば三十歳
となっていた。
 惺窩は明や朝鮮の書物を読みあさる日々の
中で政治にも関心がわき、その学識は石田三
成も教えを請いたいと願うほどだった。それ
を知った秀吉から秀俊の講師となるように命
じられ、丹波亀山城に赴き寄宿することになっ
たのだ。
 秀俊は惺窩がこの頃はまだ珍しい儒学者の
装いをして僧侶らしからぬ風体だったことに
興味がわいた。
 惺窩も巷で噂されている好奇心旺盛な秀俊
に自分の幼い頃を重ね、相通じるものを感じ
ていた。
 惺窩は秀俊に教え諭すということはせず、
自分も学んでいる途中なので、一緒に学ぼう
という姿勢を見せた。そしてもっぱら明に伝
わる物語を話して聞かせるので秀俊も飽きず
に耳を傾け、次第に政治や兵法などにも興味
を示して、惺窩の講義をすぐに理解していっ
た。
 秀吉は秀俊が勉学に励んでいることを知る
と喜び、次々に書物を買い与えた。それは惺
窩の手に入れることのできない貴重な書物で、
これを惺窩も読むことにより、儒学者として
の名声が高まった。

 秀長が病死し利休も自刃した後は、秀次や
浅野長政、石田三成、増田長盛、長束正家、
前田玄以の五奉行とそれに大谷吉継などが秀
吉の補佐をするようになっていた。
 陸奥で一揆が起きるなど混乱はあったが、
民衆も新しい法度に慣れると次第に落ち着い
てきた。
 誰もが戦国の世が終わり、平穏な暮らしが
できると思った。ところが秀吉の嫡男、鶴松
丸が急死して一転、騒然となった。
 秀吉は戦で負けてもこれほどは落ち込まな
かったと、誰もが見たことのないほどの落ち
込みようだった。そうした様子から秀吉の隠
居は確実と思われた。
2009年10月09日(金) 23時29分27秒

【小説:小早川秀秋】身代わり

テーマ:小早川秀秋
 秀詮の死は病によるものと告げられた。し
かし、その秀詮の遺体のある寝屋にはすでに
秀詮の姿はなかった。
 秀詮は侍医、曲直瀬玄朔の従者の一人に成
り変り、深夜になるのを待って城内から出て
行った。
 寝屋にはすでに用意されていた棺桶が運ば
れた。その中には秀詮と背格好の似た病死の
遺体が納められていた。遺体は数日たったも
のらしく、十月の寒い時期で腐敗が遅いとは
いえ顔がむくんで誰だか判別できない状態だっ
た。
 玄朔の従者がそれを棺桶から出して布団に
くるめ、秀詮の身代わりとした。
 次の日、残っていた家臣らが見守る中、秀
詮の身代わりの遺体が棺桶に納められた。そ
して葬儀はしめやかに行われ、その死は道澄
法親王、近衛信尹(このえのぶただ)などの
公家からも惜しまれた。
 遺体が埋葬される出石郷伊勢宮の満願山成
就寺までの移動中には領民が大勢、沿道をう
め、狂った領主を恨むどころか多くの者が嘆
き悲しんで手を合わせた。
 領民は秀詮の狂ったフリをしている振る舞
いをうすうす感じていたかのようだった。
 秀詮の葬儀が済むと平岡は秀詮に側室や子
がいることなどまったく気づかず、跡継ぎが
いない小早川家が廃絶にならないように養子
を仕立てようとした。
 平岡は秀詮が毒殺ではなくあくまでも病死
したように装い、淡々と後始末をこなしていっ
た。しかし平岡の行動もむなしく秀詮の養子
は認められず小早川家は廃絶となった。だが
養父、小早川隆景には弟の秀包(ひでかね)
がいたので、そちらの小早川家が残り、毛利
一族との約束は果たされた。そして残ってい
た家臣の一部は毛利家に仕官し、それ以外の
家臣もそれぞれの居場所を見つけることがで
きた。
 すべてを整理した平岡は秀詮に最期まで忠
義を貫いたということで家康に高く評価され、
誰にも疑われることなく家康に召抱えられた。
 これで家康の憂いがひとつ消えた。
 それから間もなく小早川秀詮などこの世に
存在しなかったかのように世間から忘れ去ら
れた。

                【小説:羅山】に続く

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