【小説:小早川秀秋】逃げ道 | 関ヶ原の合戦を演出した小早川秀秋

【小説:小早川秀秋】逃げ道

 南宮山の安国寺恵瓊は優勢のはずの東軍が
劣勢になりかけていたのを好機とみて、毛利
秀元に家康の背後を攻撃するように助言した。
しかし吉川広家は家康と内通していたので、
出陣しようとする秀元を止めていた。この南
宮山の動きが勝敗を大きく左右する鍵になっ
ていた。
 家康も南宮山が気になり始めていた。秀元
がこちらに攻めてくれば東軍に味方している
秀吉恩顧の諸大名もいつ反旗を翻すか分から
ない。そこで本陣を移動することにした。
 毛利の部隊から距離をおく桃配山の中腹に
移動して一旦は留まったが東軍はさらに劣勢
になり、桃配山を下ることにした。そこには
中山道、伊勢街道がある。
 家康はいざという時の逃げ道を確保しよう
としていたのだ。
 家康が本陣を移動していることを知った秀
秋も決断を迫られていた。
 松尾山城を奪い取ったことで秀秋の家臣は
皆、手柄を立て自分たちの役割は終わったと
思いこの時、すでに戦闘意欲をなくしていた
のだ。それを今からどういう理由で皆に死を
覚悟させて戦わせるのか。
 松尾山城のいたる所に小早川隊、一万五千
人の将兵がじっと待機している。
 末端の兵卒はすでに故郷に帰ることで頭が
いっぱいだった。しかし合戦が始まってもな
かなか勝敗が決まらない。兵卒に戦いの駆け
引きなど知るよしもない。それでもこれだけ
長い間、勝敗が決まらなければ自分たちの出
陣もあるのではないかと思うようになってい
た。
 これまで秀秋が領地管理や戦闘訓練などで
示した考え方が兵卒にも浸透していた。やが
て誰に命令されるでもなく皆、自発的に戦う
準備をして、ひたすら秀秋の命令を待った。
 合戦という死を覚悟した異常な興奮状態の
中では本来、逃げ出す者や抜け駆けして功名
を得ようとする者がいてもおかしくない。多
人数の中、数人が勝手な行動をしても分から
ないだろう。
 朝鮮ではどの部隊よりも真っ先に蔚山城に
攻めて行くような戦い方をしていたが、今度
の戦では整然と秀秋の命令を待っている。
 秀秋が優柔不断で愚鈍な若殿様なら補佐を
する家臣がいくら有能でも末端の兵卒を命令
に従わせることは難しい。もっとも、有能な
家臣なら秀秋を言いくるめて出陣させるか、
秀秋を無視して行動し出世の機会をつかもう
とするだろう。稲葉正成は家康に取り入ろう
としていたし、家康から送り込まれた浪人の
中には家康の家臣もいたのだ。
 この時代、愚鈍な殿様に仕える必要はない。
まして命令を聞く気にはならないだろう。
 秀秋と兵卒の身分を越えた強い信頼関係が
なければ今の小早川隊の姿はない。
「待つのも釣りだーね。若様は大物でも釣ろ
うとされとるんじゃろ」
 兵卒のひとりがそうつぶやき、緊張してい
た場を和ませた。
 ただひとり家康の使者で来ていた奥平は、
秀秋がいつまでたっても動こうとしないこと
に、家康の怒っている姿を想像して肝を潰す
思いだった。
「秀秋殿。ご出陣を」
 秀秋は関ヶ原の地形図に手を添えて示し、
奥平を睨(にら)みつけた。
「家康殿はまだ布陣が整ってないのに戦いを
始められた。秀忠殿も来てないではないか。
俺は将兵を無駄死にさせる気はない」
「お恐れながら、西軍には大殿と内応してい
る部隊がおります。秀秋殿のご出陣があれば
それらも動き、必ず勝利します」
「俺より先にその部隊が動かんのはどうして
だ。皆、秀忠殿の兵を家康殿が温存している
と思っている。このままうかつに動けば戦っ
た後、どちらが勝つにしても裏切り者の汚名
をきせられて打ち滅ぼされるかもしれん。ま
ずは秀忠殿がなぜ来ないのかそれをはっきり
させるのが先決であろう」
 秀秋の鋭い洞察に奥平はひるんだ。
「では秀忠殿の所在を調べて参ります」
 奥平はいたたまれず立ち去った。
 それを見た稲葉が秀秋の側に寄りささやい
た。
「よろしいのですか。家康殿に疑われますよ」
「なぁに飢えた獲物はどんな餌にでも食いつ
くものだ。家康には天下をくれてやる。だが
こうして地獄の苦しみを味わえば、助けた者
が小僧でも神仏に見えよう」
 そうは言ったものの、秀秋は地形図を見て
は考え込んだ。
 秀秋はこれまで運命に逆らえなかった。生
まれた時から織田信長の生まれ変わりを演じ
て自我を出すことができず、その上、養子に
次々と出され、居場所を見失うこともあった。
まるでタンポポの種が風に飛ばされて落ち、
その場所がどんな所でも咲かなければならな
いように、与えられた条件を受け入れるしか
なかったのだ。
(どうせ捨てるものは何もない)
 秀忠の部隊が到着して自分の出番がなく、
命が尽きるのもいいと思っていた。