【小説:小早川秀秋】リーフデ号 | 関ヶ原の合戦を演出した小早川秀秋

【小説:小早川秀秋】リーフデ号

 慶長五年(一六〇〇年)三月十六日
 豊後・佐志生の黒島沖にオランダから出航
した東インド貿易の船、リーフデ号が漂着し
た。
 領民の知らせを聞いた臼杵城主で秀秋が朝
鮮に出兵した時の軍目付だった太田一吉が向
かい、生存者が二十四名いることを確認した。
その中にはイギリス人の航海士、ウイリアム・
アダムスもいた。
 太田は家康に知らせるとその後、肥前・長
崎の奉行をしていた寺沢広高が対応を引き継
ぐことになった。
 寺沢はポルトガル人のイエズス会宣教師を
通訳としてアダムスらを尋問した。
 この一件は筑後の柳川に赴任していた秀秋
の家臣、松野主馬により秀秋にも伝えられた。
 松野の話によると漂着した船には、大型の
青銅製大砲十九門、鉄砲五百挺、砲弾五千発、
鎖弾三百発、火箭三百五十本、矢尻三百五十
五個、その他に鎖帷子、甲冑などが多数積ん
であったということだった。
 秀秋は稲葉正成、大炊助長氏らと相談した
結果、毛利一族の長であり西方の統治者でも
ある毛利輝元に知らせることにした。その使
者として小早川隆景の家臣だった岩見重太郎
を向かわせた。
 安芸・広島城で岩見の話を聞いた輝元は吉
川広家と小早川隆景亡き後の補佐役、安国寺
恵瓊に相談した。
 この頃、広家は家康との融和をはかり無用
な対立を避けようとしていた。しかし恵瓊は
家康との対立は避けられないと考えていた。
 三人は大陸、明との戦いで大砲の威力を知っ
ていたので、新型の大砲を積んだ船が家康の
ものになることを恐れた。しかし船を奪い取
れば謀反の疑いありとして家康に大義名分を
与えることになる。
 広家は輝元が西方の統治者として船を調べ
る権利があることを家康に伝えるべきだと主
張した。それに対して恵瓊は秀頼の後見人と
して家康が先に調べると言えば誰にもとめる
ことはできないと主張して話はまとまらなかっ
た。
 一計を案じた恵瓊は密かに石田三成のもと
へ使者を向かわせた。
 恵瓊の使者は商人の身なりをして近江・佐
和山城に入った。そして恵瓊の密書を三成に
渡すと、それを読んだ三成は言葉を失った。
 三成は家康に大砲が渡ることを恐れたので
はない。強力な武装をした異国の船が漂着と
はいえ日本にやって来たことを恐れたのだ。
(これから異国の軍艦が大軍で押し寄せてく
る。朝鮮の水軍にさえてこずる日本の水軍で
は持ちこたえられない。かの地では異国に攻
められて植民地にされた国もあると聞く。家
康はそのことに気づくだろうか。しかし異国
がすぐに攻めてくるとは限らない。たとえ家
康が知ったとしてもその跡を継ぐ子がぼんく
らでは対処できまい。もはや家康の寿命を待っ
てはいられないか)
 三成は知略に長けた側近の島左近を呼んで
相談した。
 三成の言葉一つ一つにうなずいて聞いてい
た左近は「恵瓊から知らせが来たということ
は毛利一族が動くかもしれない。そうなれば
西はまとめやすい。今は東の手立てを考えて
おくべきではないか」と進言した。
 三成はうなずいてすぐに使者を会津の上杉
景勝の家老、直江兼続のもとに向かわせた。
 景勝は小早川隆景の亡き後、五大老のひと
りに加わっていた。

 恵瓊の使者は三成に会った後、越前・敦賀
の大谷吉継を訪ねた。
 この頃、吉継は病に侵され失明に近い状態
だった。
 恵瓊の使者から話を聞いた吉継は「承知し
た」とだけ言って使者を帰した。そして吉継
の目の代わりをしていた湯浅五郎を伴い大坂
城にいる家康を度々訪ねるようになり忠節を
尽くした。
 家康は最初、吉継に疑いの目を向けていた。 
かつて秀吉は三成と吉継を三国志に登場する
蜀の劉備玄徳に仕えた二人の軍師、諸葛孔明
とホウ統士元に重ね合わせ「伏竜、鳳雛」と
称していたほど二人は知略に長け仲も良かっ
たからだ。
 家康の家臣たちもそれを知っていたので吉
継をののしりあざ笑った。
「伏竜を見限る鳳雛が殿の役に立とうなどと。
何を企んでおるのやら」
「なにが鳳雛じゃ。目が見えんと空も飛べま
い」
「雛じゃからもともと飛べんよ。ははは」
 吉継はそれに怒ることもなく家康の政務を
手伝い、どの家臣よりもそつなく処理した。
「さすがは鳳雛と称されたことはある」
 家康のこの一言で家臣たちも沈黙し吉継を
認めるようになった。