【小説:小早川秀秋】総大将の権限 | 関ヶ原の合戦を演出した小早川秀秋

【小説:小早川秀秋】総大将の権限

 釜山支城は日本軍が上陸するため海に面し
た場所に元々あった朝鮮の城を壊して築城し
た。沿岸には堀が造られ城内に軍船でそのま
ま入れるようになっていた。ここに秀秋の部
隊、兵一万三百人と総大将の軍目付として太
田一吉、軍医兼通訳として安養寺の慶念が供
に上陸した。そしてここから見える釜形の小
高い山にある釜山浦城に向かった。
 釜山浦城も朝鮮の城を壊して日本の平城が
築城され、休戦の時にも日本の部隊が交代で
守備していたので損害はなく城の周りは平穏
が保たれていた。
 すでに上陸した他の部隊は各地に向かい戦
いが始まっている地域もあった。
 朝鮮は文禄に侵略された時とは違い、防衛
準備をして待っていた。その一つが日本軍の
拠点とする城の辺りにある農村を完全に無人
化することだった。このため日本軍は現地で
兵糧を調達できない状況にあった。そこで秀
吉は周辺を開墾して耕作地にし、兵糧の確保
に努めるように指示していたのだ。秀秋もこ
れに従い全軍に防備を固めさせ、拠点となる
諸城の修繕と開墾をするように指示した。し
かしこのことをまったく忘れていた秀吉は、
文禄の時のように朝鮮を侵攻しているとばか
り思っていた。
 いつまでたっても秀吉のもとには華々しい
戦果の報告がいっこうに入ってこない。しば
らくして侵攻をしていないことが分かり、激
怒した秀吉は秀秋に朱印状を送った。
 秀秋のもとに届いた朱印状には「何事も諸
大名と相談して越権行為はせず、兵法を学ぶ
ように。もし何もしないのなら強制帰国させ
る」といった内容だった。これは秀秋が兵法
も知らないうちに独断で諸大名に命令し侵攻
を止めているから成果が上がらないのだと読
み取れた。
(とと様はもうろくされた)
 秀秋はため息をついた。
 兵法を学んでいなくてもこの戦に大義名分
のないことはすぐに分かる。
 秀吉が天下を取った時には民衆の支持があ
り、平安を望む時代の要請があった。しかし
朝鮮にはそれがまったくない。朝鮮にとって
この戦は無意味な侵略でしかないのだ。それ
でも秀秋はこの地に根を下ろし理想の国を創っ
ていこうと思っていた。
 日本には捕虜となって連れてこられた朝鮮
人たちが才能を発揮して儒学や印刷、陶磁器
を発展させている。一方、朝鮮では投降した
日本兵が鉄砲を使った戦闘方法を教えて協力
し合っている。こうしたことから秀秋はいつ
か協力しあえる日が来ると信じていた。
(惺窩先生が来たいと熱望したこの地。まだ
学ぶべきものがあるはずだ。惺窩先生のため
にも平安を築かねば)
 秀秋は総大将の権限として秀吉の指示を認
めず、諸大名には現状維持を命じた。そして
自ら体力維持のためにと開墾を手伝った。そ
れから馬を走らせて諸城の修繕を視察して回っ
た。
 諸大名は秀秋の考えを理解できたがそれよ
りも秀吉の逆鱗に触れるのが怖かった。
 秀吉は養子にした秀次やその妻子でさえも
殺した。その秀吉に逆らえば日本に残した自
分たちの妻子も殺されるという心配があった
からだ。
 しばらくすると秀吉は秀秋を見限り、自ら
命令を諸大名に発するようになった。
 秀秋を除く日本軍は二つに分けられた。
 全羅道方面軍
  大将、宇喜田秀家
島津義弘、忠恒の父子、小西行長、
藤堂高虎、蜂須賀家政など
 慶尚道方面軍
  大将、毛利秀元
吉川広家、安国寺恵瓊、加藤清正、
鍋島直茂、勝茂の父子、黒田長政
 このどちらの方面軍も忠清道を目指すこと
になった。
 こうして文禄の朝鮮侵攻と同じ過ちを繰り
返す軍事行動が開始された。ただ一つ違って
いたのは侵攻する先々で皆殺しにしていくと
いうものだった。
 秀吉は朝鮮の日本化を考えていた。そのた
め日本に恨みを抱くような者はひとり残らず
殺すことにした。
「平家を思い出せ。豊臣の世を平家の二の舞
にするな」
 誰も信用できなくなっていた秀吉は、朝鮮
人を殺したという証拠に耳や鼻をそぎ落とし、
塩漬けにして日本に送ることを要求した。
 最初はためらっていた将兵も次第に慣れて
くると耳や鼻を集めることが目的となり、そ
の数を競うようになった。そのため生きたま
ま耳や鼻をそぎ落とされた朝鮮人もいた。