【小説:小早川秀秋】休戦 | 関ヶ原の合戦を演出した小早川秀秋

【小説:小早川秀秋】休戦

 冬が近づくにつれ日本軍の武器、弾薬、兵
糧の補給が困難になり、各部隊は次々に退却
をよぎなくされた。
 攻勢を強める明軍は翌文禄二年(一五九三
年)一月に日本軍が集結していた漢城の近く
まで迫ったが、小早川隆景の部隊などによる
伏兵戦で敗退した。そして三月には加藤清正
によって、逃亡していた朝鮮の国王が捕らえ
られた。このことで明軍の総大将、李如松か
ら講和の申し出があり沈惟敬と小西行長が交
渉することになった。
 秀吉はこの時もまだ自ら朝鮮に渡ることを
計画していたが、今度は淀の懐妊という知ら
せがあり、またしても朝鮮行きを延期するこ
とになった。そして日本から講和の条件を出
すことにした。
 その講和の条件は、
 明の姫宮を日本の天皇の后とすること
 勘合貿易を復旧すること
 明、日本両国の武官による和平の誓紙を交
換すること
 日本を朝鮮王とし南部四道を与えること
 朝鮮王子、大臣を人質として来日させるこ
と
 日本は捕虜とした朝鮮の二人の王子を返還
する
 朝鮮は大臣の誓紙を提出すること
 これを受け取った行長はなんとしても講和
を成功させたいと思案し、朝鮮の二人の王子
を返還する替わりに勘合貿易の復旧をすると
いうことだけを条件として明の沈惟敬に伝え
た。
 長引いていた講和交渉も八月三日に淀が男
子を生んだことで、秀吉は京に戻ることにな
り、朝鮮侵攻はうやむやな状態で休戦に入っ
た。
 朝鮮で戦った各部隊が次々と名護屋の港に
帰還する中、朝鮮の南部に築城した日本の城
を守備するという名目で一部の将兵が残され
た。これらの者は兵糧が乏しくなると多数が
朝鮮に投降していった。朝鮮ではこれらの者
を降倭と呼んで受け入れ、鉄砲の製造方法や
戦闘術を学んで再び日本が侵略してくるのに
備え始めた。

 秀吉は今度こそ淀が生んだ嫡男を守ろうと
異常なほど神経を尖らせていた。
 鶴松丸が利休の呪いで死んだと信じている
秀吉は生まれた子から利休の呪いを取り払う
ため家康の側近となり陰陽道を極めた僧侶、
南光坊天海を頼った。そして天海の託宣によ
り、生まれた子は家臣の松浦重政が拾ったこ
とにし、名も拾い子ということで拾丸と名付
けられた。
 家康はこれをきっかけに朝鮮侵略の失敗で
日増しに立場の悪くなる秀吉を擁護して接近
した。それは秀吉の影響力が弱くなり、関白、
秀次が正式に後継者になれば自分の天下が遠
のくからだ。また、国替えで押し付けられた
荒廃している領地の開発が始まったばかりで、
それを秀次に邪魔されないようにする必要が
あったからだ。
 家康の擁護を秀吉は朝鮮出兵を免除したこ
とを感謝しているからだと信じていた。

 文禄二年(一五九三年)九月
 秀吉は肥前・名護屋から京に帰るとすぐに
大坂城にいる淀と捨丸に会った。その元気な
様子に安心した秀吉は十月には捨丸と秀次の
生まれたばかりの娘、菊を婚約させた。これ
は秀次を後継者ではなく他人として扱うこと
を意味していた。そのかわり秀次には日本を
五分してその四を与えることを約束した。
 その秀次のもとには朝鮮に出兵して所領が
疲弊している諸大名からの不満が伝えられて
いた。こんな時、秀長なら諸大名をうまくな
だめる一方、秀吉に弟としてわだかまりなく
進言できただろう。しかし秀次は秀吉の養子
の立場と関白という立場の板挟みになり、す
ぐには進言できないでいた。      
 秀吉は朝鮮侵略の失敗から逃げるように尾
張・清洲城の家康のところに行くなどこの年
末は隠居した太閤として都合よく振舞い、先
手を打つかたちで秀次を突き放したのだ。
 家康は秀吉と秀次の関係が悪化していくの
を尻目に、江戸に招いた藤原惺窩から明に伝
わる帝王学「貞観政要」を学び、来るべき時
に備えた。