【小説:小早川秀秋】信長と利休 | 関ヶ原の合戦を演出した小早川秀秋

【小説:小早川秀秋】信長と利休

 秀吉の耳に堺で隠居したはずの利休が暴利
を得ているという噂が入ってくるようになっ
た。しかし利休自身がやっているのではなく
堺商人が利休を利用していることを秀吉は分
かっていた。それに利休のこれまでの功績を
考えると十分見逃せる範囲のことだった。そ
のことより秀吉が不信を抱いたのは茶室だっ
た。
 これまでの茶室は四畳半という広さが最も
狭い空間だったが、利休は庶民の間で広まっ
ていた三畳や二畳といったさらに狭い空間に
した。そして土塀で囲んで外に声が漏れるの
を防ぎ、後で窓を開けることで射し込む光が
独特の雰囲気を作り出した。この茶室に入る
と異空間の中に閉じ込められた状態になり密
談をしていても外部に漏れることがなく、招
き入れる主ともてなされる客の間に主従関係
が生まれやすく、ある種の幻覚のような状態
で人の心を操ることさえできるのではないか
と思われた。それを示すかのように利休に心
酔した古田織部、細川忠興らの諸大名が弟子
になっていた。
 この頃、秀吉は士農工商の身分法を確立し
ようと考えていた。そうした中で大名が町人
である利休の弟子になることなど許せるはず
がなかった。また利休の詫び茶は一種の宗教
のような広がりをみせていたことも秀吉には
脅威だった。
 秀吉は九州征伐の後に起きた一揆をキリシ
タン信者の扇動によるものと考え宗教を警戒
していたのだ。つい先ごろも前田利家から出
羽で一揆が起こったと知らせがあったばかり
だ。そして秀吉が利休を恐れた本当の理由は
別にあった。

 時はさかのぼり永禄十一年(一五六八年)
 天下布武を掲げ勢いに乗る織田信長はこの
時、三十五歳。
 室町幕府は末期の混乱状態にあった。それ
を好機とみた信長は第十五代将軍に足利義昭
を推したて上洛を果した。この時に信長は堺
商人から軍資金の調達をした。そこで今井宗
久から千宗易を紹介された。
 信長は宗易の錬金術師のような才能にいち
早く気づき茶頭にして茶の湯を広めさせた。
 特定の山などでしか手に入らない金銀に比
べ、どこでも誰にでも作れる茶器をあたかも
価値のあるものに見せかけ、流通させれば、
自分でいくらでも金銀を作れることになる。
それを資金に換え軍備の調達をしたり、茶器
そのものを戦で手柄を上げた兵士に褒美とし
て与えたりすれば金銀を減らさずにすむ。そ
う考えた信長は自らも高価な茶器を買いあさ
り、そのことを「名器狩り」と揶揄(やゆ)
されたが、これは茶の湯の宣伝をするためで、
商人も加わって茶器の価値をつり上げること
に成功した。そして公家や大名を巻き込んだ
茶器投機が流行した。
 堺商人との関係を取り持つため茶頭となっ
た宗易も自分の地位を高めることに成功し、
最初の頃は信長と利害が一致していた。しか
し本来、宗易が目指していた茶の湯は「身分
に関係なく誰でも茶の湯を通じて語り合える
世の実現」だったことに目覚めた。
 気がつけば茶の湯は茶器の値踏みをする場
になり、神のように振舞いだした信長が、あ
たかも家臣に神の宝物でも授けるように茶器
を与えることに嫌悪感を増した。
 さらに高慢になった信長は家臣を使い捨て、
まるで物のように扱うようになり、優秀で忠
実な家臣の明智光秀でさえ無慈悲な扱いをし
ていることに、宗易はいずれ自分も厄介払い
されるかひどい目に遭うのではないかと恐怖
を感じるようになった。そこで百姓から出世
を続け、庶民に人気急上昇の秀吉なら自分の
目指す「身分に関係のない茶の湯」が実現で
きると思い秀吉にすりより、信長の暗殺を考
えるようになった。