【小説:小早川秀秋】九州平定 | 関ヶ原の合戦を演出した小早川秀秋

【小説:小早川秀秋】九州平定

 太政大臣に就任した秀吉は翌年の天正十五
年(一五八七年)一月には宇喜多秀家、二月
には福島正則、細川忠興、羽柴秀長らを次々
と九州征伐に向かわせた。そして三月になる
と自らも兵八万人の部隊を率いて出陣した。
その後も浅野長政、加藤清正など秀吉と共に
数々の戦いを勝ち抜いた者たちの出陣が続い
た。
 秀吉が備後・赤阪に到着すると足利義昭が
出迎えた。その姿に室町幕府、第十五代将軍
の面影はなく幕府復興は完全にあきらめてい
た。
 赤阪を出発して安芸に到着した秀吉は厳島
に渡り、かつて平清盛が平家納経を奉納した
厳島神社で戦勝祈願をした。
 秀吉は平氏の流れをくむ家系と名乗ってい
たので、清盛と同じ太政大臣にまでなったこ
とをしみじみと噛みしめていた。
 三月も終わりの頃、ようやく秀吉は長門・
赤間の関から豊前・小倉に渡った。
 豊臣軍はすでに九州入りしている兵を合わ
せて二十万人を超える大軍となり、四月に入っ
て間もなく秀吉は筑前・厳石城を落城させた。
また別働隊の大谷吉継、吉川広家も日向・土
持城を攻略して進軍していた。
 秀吉は四月半ばにはすでに肥後に進軍する
ことができた。その後も島津軍の占領地を肥
後と日向の二手に分かれて次々と攻略していっ
た。
 五月に入って秀吉は薩摩・川内の泰平寺に
本陣を構えた。すると間もなく島津義久がやっ
て来て無条件降伏を申し出た。
 義久はかねてから秀吉の弟、秀長に調停を
求めて親しくなっていた。そこでこの苦境を
切り抜けるため秀長に頼った。それが功を奏
して斬首を免れ、島津は薩摩、大隅、日向の
一部を安堵された。
 この戦の間に大友義鎮は死去したため長男
の義統へ豊後、日向が与えられ、黒田孝高に
豊前、鍋島直茂に肥前、佐々成政に肥後、小
早川隆景に筑前、筑後をそれぞれ所領とする
ことが決められ九州討伐は終わった。

 秀吉はしばらく大坂城には戻らず筑前・博
多に滞在した。
 博多は対馬を挟んで朝鮮を臨む地だ。
 秀吉はこの時、対馬の宗義智を介して朝鮮
王が秀吉に服従しなければ出兵すると勧告し
た。これには二つの狙いがあった。その一つ
は秀吉が日本の支配者になったことを誇示す
るため。もう一つは朝鮮が日本を侵略する意
図があるか探るためだ。
 日本を侵略しようと企てそうな国は他にも
ポルトガル、スペイン、オランダがあった。
これらの国は大陸の明を侵略する拠点として
日本を占領できないか探っていたのである。
こうした動きはキリシタン大名の松浦隆信や
小西行長らの外交情報や世界的視野を身につ
けた黒田孝高や石田三成らの進言として秀吉
に伝えられていた。
 特にスペインは当時、最強の艦隊を擁して
占領政策をすすめ、日本とも同盟して明を侵
略したいと申し出ていた。
 秀吉が博多に滞在した目的の一つにはスペ
インからやって来たイエズス会の日本準管区
長コエリヨに会うためだった。かねてから三
成はスペインが同盟ではなく、日本を占領す
る野心があるとみて、コエリヨが所有してい
る軍艦の売却を要求してその返答で判断する
よう秀吉に進言していた。
 秀吉は九州征伐で大友が装備していた大砲
の威力に魅せられ、コエリヨに大砲を装備し
た軍艦の売却を要求した。これを拒めばキリ
シタンに災いが降りかかると懸念した小西行
長らがコエリヨを説得したが聞き入れなかっ
た。
 断りの返答を聞いて激怒した秀吉はスペイ
ンに日本侵略の企てありとみて、すぐにキリ
シタン禁止令を出し、宣教師は十日以内に国
外退去するように命令した。
 かつて日本は広大な大陸を支配する蒙古に
狭い国土を侵略されそうになるという理不尽
な体験があった。さらに今は大陸を狙う諸外
国の拠点として占領されるかもしれないとい
う状況にある。それを阻止するために信長が
天下統一を目指し、秀吉が成し遂げようとし
ていたのだ。