【小説:小早川秀秋】滝川一益 | 関ヶ原の合戦を演出した小早川秀秋

【小説:小早川秀秋】滝川一益

 一益は清洲会議で必ず内紛が起きると読ん
でいた。そこで北条一族との戦いを理由に欠
席し、内紛の混乱を利用して漁夫の利を得よ
うと企てた。しかし予想に反して秀吉が三法
師を擁立してあっさり後見人に収まってしまっ
たのだ。
 天下取りの野望が潰えた一益はしかたなく
秀吉に味方することを決めた。ただし一益は
秀吉より十三歳年上で単に味方になるといっ
ても信用されず、いずれ厄介払いされる可能
性があり、それは死を意味していた。
 こういった世代交代の時がいちばん危険な
ことを一益は熟知していた。そこで一益は茶
の湯の師匠である千宗易を介して秀吉と密か
に通じておき、表向きは秀吉に反抗する姿勢
を見せて、秀吉に反感を抱いている者をあぶ
りだし、それらを一掃する役目を買って出た。
 まずは柴田勝家の甥で今は養子になってい
る勝豊が標的となった。
 勝豊の養父、勝家は清洲会議で信長の妹、
お市の方と秀吉が築城して居城とした近江の
長浜城を手に入れ、勝豊に長浜城を与えてい
た。
 秀吉は勝豊が長浜城に入城する時は快く迎
え宴会まで催したが、いずれは奪い返したい
と思っていた。それは近江が鉄砲の生産供給
地だったからだ。
 この頃、鉄砲は近江と和泉・堺で生産され
近江商人と堺商人が主に取り扱っていた。
 秀吉の茶頭となった宗易は堺商人の代表な
ので、もう一方の近江商人を手なずければ天
下取りは盤石の態勢となる。
 一益は秀吉が近江をほしがっていることを
察し勝家、勝豊を焚き付けて秀吉に敵対する
姿勢を鮮明にさせた。

 天正十年(一五八二年)十二月
 勝家は北陸の越前・北ノ庄城を居城として
いたので冬は雪深くなり動けなくなった。そ
れを待っていた秀吉はすぐに勝豊が居城する
近江・長浜城を兵五万人で完全に包囲した。
 ここで秀吉が勝豊を長浜城に迎えた時の宴
会が生きてくる。
 秀吉は勝豊にあの時のことを思い出させ、
味方につけば悪いようにはしないと降伏を促
した。こういった時には秀吉の弟の秀長が裏
付けの役目をして豊勝を信用させた。
 勝豊はあっさりと長浜城を明け渡し、秀吉
の軍門に下ることにした。
 一益が選んだ次の標的は織田信孝だった。
 信長の三男、信孝は本能寺の変が起きた時、
秀吉と合流して戦った。したがって清洲会議
では秀吉が味方になり自分が信長の後継者に
選ばれると思っていた。しかし秀吉は亡くなっ
た長男、信忠の子、三法師を選んだ。その不
満がくすぶり続けていたのだ。
 信孝は一益から、柴田勝家が秀吉に敵対し
ていることを知らされると、自分を擁立して
くれた義理もあり、勝家に味方することにし
た。
 信孝が秀吉に敵対する姿勢を示すと秀吉は、
柴田勝豊を降伏させたわずか十日後に信孝の
居城である美濃・岐阜城を包囲した。
 ここでも秀吉は懐柔策を駆使し、信孝の父、
信長に茶頭として仕えた千宗易を説得に向か
わせるなどして信孝を降伏させた。
 秀吉はこんな慌しい間にも山城に山崎城を
築城していた。そして完成すると凱旋し、ま
もなく新年を迎えた。