【関ヶ原の合戦の疑問】 | 関ヶ原の合戦を演出した小早川秀秋

【関ヶ原の合戦の疑問】

 通説の関ヶ原の合戦には多くの疑問な点が
ある。それをまとめてみた。


リーフデ号の存在

 慶長五年(一六〇〇年)三月十六日
 豊後・佐志生の黒島沖にオランダから出航
した東インド貿易の船、リーフデ号が漂着し
た。
 生存者二十四名の中にはイギリス人の航海
士、ウイリアム・アダムス(後の三浦按針)
もいた。
 船の積荷は、大型の青銅製大砲十九門、鉄
砲五百挺、砲弾五千発、鎖弾三百発、火箭三
百五十本、矢尻三百五十五個、鎖帷子、甲冑
などが多数積んであった。
 このリーフデ号は徳川家康が拿捕した。そ
してアダムスは家康の軍事顧問になっている。
それなのにこれらの武器が関ヶ原の合戦で使
用されたことが通説ではどこにもでてこない。
 

徳川秀忠の部隊

 関ヶ原には徳川家康の三男、秀忠の部隊も
加わる予定になっているのに東軍にはその兵
数が含まれていない。
 家康と三男、秀忠の部隊をあわせただけで
兵六万八千人になる。
 これは歴史を結果からさかのぼって見てい
るためで、こうした間違いが通説には多い。


毛利の布陣

 西軍は鶴翼の陣で布陣した。これは徳川家
康が持ち込んだ大砲の射程距離に入らないよ
うにするためではないのか?
 そして両翼には石田三成と大谷吉継が布陣
し、中央の総大将の位置には豊臣秀吉の養子
でもある宇喜多秀家が布陣している。このこ
とから総大将は秀家ではなかったのか?
 大谷吉継はもともと家康に味方していた。
それなのに東軍から寝返ったとか裏切り者と
いわれないのはなぜ?
 西軍の総大将とされた毛利輝元の名代とし
てやって来た輝元の養子、秀元と吉川広家の
部隊は東軍側にある南宮山に布陣した。これ
はあまりにも西軍から遠ざかっていて、最初
から西軍に加わるつもりはなかったのではな
いか?
 そのうえ、松尾山に小早川秀秋が布陣した
ことで毛利の部隊はどちらにも動けなくなっ
たのではないだろうか?


松尾山の城

 関ヶ原の合戦が始まるかなり前から西軍は
松尾山にあった古城を改修している。
 この松尾山城は過去、浅井長政が築城した
後、織田信長の近江侵攻で開城した。そして
近江平定後に廃城となっていた。
 西軍はこの城に伊藤盛正を布陣させていた。
そこへ突然、小早川秀秋の部隊、兵一万五千
人がなだれ込み、伊藤を退去させている。
 これまで秀秋は、家康が居城にしていた伏
見城攻撃に加わっていたので、伊藤は秀秋が
西軍に味方すると錯覚していた。
 この無血入城により秀秋は東軍として戦功
をあげた。だから後の戦に秀忠の部隊が到着
すれば東軍は圧勝できるので加わる必要がな
いと考えていたのではないだろうか?
 すくなくとも家康は秀秋が東軍に味方する
ことは分かっていた。これは通説にもあり、
だからこそ、なかなか動かない秀秋に家康は
鉄砲を撃って出陣の催促をしたという創作が
生まれた。


島津の動き

 西軍の島津部隊は通説では石田三成と不和
になり、動かなかったことになっているが、
布陣した場所は三成や宇喜多秀家を東軍が攻
撃する時に邪魔になる。
 本当に戦う気がないのなら撤退してもよかっ
たはずだ。また島津は当初、徳川家康に近づ
こうとしていたから寝返ることもできた。
 合戦の終盤には東軍に包囲され、島津部隊
は敵中突破をして敗走。
 島津部隊の千五百人の兵が最後まで残った
のは八十数人という無残な状態だった。
 これほどまで攻撃を受けたのに戦後、領地
を安堵されているのはなぜ?
 同じ西軍といわれる毛利の部隊も東軍側に
布陣して最後まで動かなかったが、攻撃され
ることもなく退却している。


東軍が先制攻撃?

 そもそも東軍が抜け駆けするような先陣を
争ってまで戦う必要はなかった。
 秀忠が到着して劣勢になるのは西軍のほう
で、西軍は秀忠が到着する前に戦いたかった
はず。
 東軍が攻撃を開始したのは西軍の策略にひっ
かかったとしか思えない。
 小早川秀秋が松尾山の城に無血入城したこ
とで、西軍の布陣の一角が崩れた。これで東
軍は圧倒的に有利になり、秀忠の到着を待つ
までもなく勝てると思ったのでは?
 そこに西軍から挑発があり、戦いが始まっ
た可能性がある。


徳川家康の催促鉄砲?

 家康は劣勢になった時、小早川秀秋のいる
松尾山に鉄砲を撃たせた。(本当に撃ったか
どうか疑わしいが)これを通説では出陣の催
促をするものとしているが、逆に秀秋が出陣
しようとしていたのを止めさせようとしたの
では?
 豊臣の血縁関係にあった小早川秀秋には関ヶ
原に来てほしくなかった。それなのに松尾山
の城を奪い取るという手柄をあげられた。そ
の上、加勢されると後々、豊臣家を滅ぼすの
に都合が悪かったのではないだろうか?
 事実、秀秋が合戦の勝利に大きく貢献した
ことで、豊臣恩顧の大名の発言権が残り、徳
川の天下取りは遅れた。
 家康としては秀忠が到着するのを待つか、
一度退いて、体勢を整えたかったのでは?
 この時、松尾山の城に秀秋が籠城している
ほうが都合が良かったはずだ。


なぜ西軍目線なのか?

 関ヶ原の合戦は東軍が勝利し、徳川260
年の世を築く発端となった。その政治がすべ
て良かったわけではないが、すべてが悪かっ
たわけでもない。

 初期こそ争いがあったが、戦のない世がこ
れほど長く続き、外国に頼らず文化を発展さ
せたことは評価するべきだ。

 それなのに関ヶ原の合戦は負けた西軍目線
で語られることが多く、本来なら東軍を「裏
切った」大谷吉継は卑劣な人物であり、それ
を倒した小早川秀秋は高く評価され、勝利に
導いたことを後世に伝えるのが普通だろう。

 このゆがんだ語りは大阪の合戦(冬の陣・
夏の陣)で民衆に真田幸村人気が高まったあ
たりから始まり、それを徳川幕府が黙認した
ことにある。

 徳川幕府は意図して不都合な歴史を隠ぺい
していたように思う。それがさらに幕末になっ
て徳川悪者一色となり、徳川に味方した者は
悪者扱いされるようになったのではないだろ
うか?

 特に小早川秀秋は関ヶ原の合戦後、領地を
転封されて間もなく死亡したため、民衆には
その人となりがあまり分からず、功績を伝え
る人もいなかったと思う。

 少なくとも西軍・東軍両方の目線で語られ
ることが公平ではないだろうか?


 こうしたことが通説では納得いく説明がさ
れていない。
 このブログではこうしたことを正していき
たい。