【小説:羅山】島原騒然 | 関ヶ原の合戦を演出した小早川秀秋

【小説:羅山】島原騒然

 家光は江戸城にあった家康の霊廟を二の丸
の側に移転するよう命じた。その場所に以前
から飼っていた二羽の鶴が舞い下り、再び東
に飛び立った。
 この話を聞いた家光は吉兆と喜んだ。しか
しそれもつかの間、家光は熱を出し、道春、
東舟が侍医らと協議して看病に奔走した。
 さらに家光を悩ませる問題が南で起きてい
た。
 肥前、島原半島の民衆が長年続いている異
常な天候での凶作にもかかわらず、島原藩主、
松倉勝家が行う年貢の取立てがきびしく、民
衆の中で豊臣秀吉の代からの領主だった有馬
晴信の家臣で今は農民となっていた者たちが
扇動して反乱軍を組織し、藩邸を襲って蜂起
した。
 これを知った肥後、天草諸島でも秀忠、家
光によって諸大名が改易され、浪人となって
いた者たちが民衆を扇動して蜂起した。この
時、総大将を十六歳の益田四郎とした。
 益田四郎は元和二年(一六一六年)に国外
追放になったママコス神父が「いずれ天下に
幼子一人が誕生する。その幼子は習わずして
諸学を極めている。やがて幼子が若者となっ
た頃、天変地異があり、その若者は民衆とク
ルスを掲げて立ち上がるだろう」と予言し、
神童と噂されていた四郎がその若者だと祭り
上げられたのだ。
 天草の反乱軍は富岡城や本渡城を攻撃した
が近隣の諸藩から応援軍が到着したので撤退
し、島原半島に向かい、島原の反乱軍と合流
した。そして廃城となっていた原城を砦とし
て籠城した。
 これを知った家光は病の癒えない自分の代
わりに板倉重昌を反乱の鎮圧に向かわせた。
 重昌は九州の諸大名に原城の包囲を支持し
たが、幕府の年貢の取立ての厳しさやキリシ
タン弾圧に同情する者もあり、気勢はあがら
ず、時間を浪費していた。
 なかなか鎮圧したとの知らせがないことに
業を煮やした家光は老中の松平信網、戸田氏
鉄に加勢するように命じた。
 一部の民衆による反乱が大坂の合戦以来の
大きな戦になろうとしていた。