【小説:羅山】毛利勝永 | 関ヶ原の合戦を演出した小早川秀秋

【小説:羅山】毛利勝永

 和睦が成立した翌日から秀忠は大坂城の外
堀の埋め立てを命じた。
 徳川勢が真田に苦しめられた曲輪が真っ先
に破壊され、その廃材、土塁が外堀に投げ込
まれた。
 外堀は短期間に埋め立てられ、次に三の丸
を取り壊した徳川勢は豊臣勢が取り壊す取り
決めだった二の丸を取り壊し始めた。
 これに大野治長が抗議したが、あっという
間に取り壊され内堀も埋め立てられた。
 家康は取り壊しの途中で京、二条城に入り、
しばらくして駿府に戻った。
 秀忠は全てが完了したことを見届けると京、
伏見城に留まった。
 道春は京の自宅に父、信時と弟、東舟を迎
え、新年を過ごした。
 大坂城は本丸だけとなり、庶民の家よりも
無防備の状態となった。
 城内で秀頼は不安にさいなまれ落ち込んだ
が、淀は更に自信を深めていた。
 豊臣勢の損失は多かったが、ほとんどの浪
人が留まり、団結力が強くなり、かえって統
率がとれるようになったからだ。
 大坂の民衆は圧倒的な大軍の徳川勢に一歩
も引かず和睦に持ち込んだ秀頼に拍手喝さい
し、おおいに盛り上がった。また、秀頼がキ
リシタンを受け入れたことで幕府に弾圧され
ていた宣教師や信者が集まり、食糧などの物
資の支援も途絶えることがなかった。
 戦続きで殺し合いに麻痺していた民衆は、
この戦を祭りの喧嘩程度にしか思っていなかっ
たのだ。
 その様子に毛利勝永は顔を曇らせた。
(地獄でも暮らしていれば慣れるのか)
 勝永は子の勝家と供に大坂城に入っていた。
 関ヶ原の合戦では毛利秀元の与力として南
宮山に布陣したが毛利部隊は動かず、これが
豊臣家の立場を悪くしたと後悔していた。
 秀頼の招きでこの戦に加わったが、秀頼の
側近からはその忠誠心が真田幸村と同じよう
に疑われていた。その幸村も子の幸昌と来て
いて、戦いに対する考え方などで意気投合し、
行動を供にしていた。
 幸村より十歳年下の勝永は弟のようでもあ
り、唯一の理解者として打ち解けた。それは
まるで大谷吉継と石田三成が復活したようだっ
た。