【小説:羅山】前兆 | 関ヶ原の合戦を演出した小早川秀秋

【小説:羅山】前兆

 林羅山は藤原惺窩のもとを訪れ、徳川家康
と豊臣秀頼の戦いが近づいていることを伝え
た。
「やはり避けられんか」
「はい。大御所様は天下を取るという一念で
今まで永らえ、そのためならわが子の命も惜
しまないお方です」
 家康は天正七年(一五七九年)に正室だっ
た築山殿が織田信長と敵対していた武田氏に
内通していたとう嫌疑をかけられ、信長の命
により殺害。その余波で長男の信康も切腹さ
せるという苦い経験があった。
「だから私はあのお方の側におるのが怖い。
お前を近づけたのも本当は悔いている」
「とんでもありません。先生のおかげで一度
死んだ命が天下に近づいたのです」
「そうか、そう思っているのならまあ良い。
しかし、戦はなんとしても避けてほしいもの
だ」
「それは豊臣家の出かた次第です」
「お前は心配していないのか。姉のように慕っ
ていた淀殿が死ぬかもしれんのに」
「それも天命です。しかし、そう簡単には死
なないと思います。淀殿は太閤が戦のおりに
はよくお供をしていました。その時、太閤は
淀殿に『よいか戦は向かうことより逃げるこ
とが大事じゃ。そのために攻撃し敵を警戒さ
せて、その隙に逃げる。またどこからともな
く現れて攻撃する。そうして敵を翻弄し戦う
気を失わせこちらの目的を達する。わしはそ
れを信長公より教えられた』と何度も話して
おりました。淀殿は私よりも戦い上手です」
「それは遁甲のことか」
「はい。ですからそう易々とは大御所様の手
にはかかりますまい」
「しかしそのために多くの犠牲が出る。その
ことも気にかけなければ将たりえない」
「はい。それは私も身にしみております。だ
からこそ今度の戦で全てを終わらせたいと願っ
ているのです。これで武士の時代は終わりま
しょう」
「そうなればよいが、おお、それで朝鮮との
和平を大義名分にするよう進言したのか」
「そうです。これでもう異国を攻めるような
ことは二度とさせません」
「それはすばらしいことだ。そうだお前に渡
したい物がある」
 惺窩はそう言って雑然と積まれた書物の中
から延平答問(えんぺいとうもん)を取り出
した。
「この延平答問には朱子の奥義の全てが書か
れている。私はこれから紀伊の浅野幸長様の
ところへ行くからしばらく会えんかもしれん。
だからこれを私の代わりに置いて行く」
 そう言って羅山に延平答問を手渡した。
「ありがとうございます。大切にお預かりし、
写本させていただきます。先生、どうぞお体
を大切に」
 二人はしばらく談笑して別れた。