【小説:羅山】確執 | 関ヶ原の合戦を演出した小早川秀秋

【小説:羅山】確執

 林羅山は徳川家康との問答で高く評価され、
伏見城にある家康所蔵の貴重な書物を閲覧す
ることを許された。しかし仕官の要請は徳川
家の都合で後回しにされた。
 この頃、徳川家では秀忠が征夷大将軍にな
る宣下の儀が執り行われた。それに伴って豊
臣秀頼を招いたが秀頼はこれを家臣が主君に
対して臣従要求をしていると解釈し固辞した。
これはかつて家康が豊臣秀吉からの臣従要求
を拒み続けた時と立場が入れ替わった対応だっ
た。
 関ヶ原の合戦以後も徳川家は豊臣家の家臣
として振る舞い、豊臣家恩顧の諸大名との不
和を回避していた。
 二年前の慶長八年(一六〇三年)七月には秀
吉の生前に約束していた秀頼と秀忠の娘、千
姫との婚儀を行い、家康が秀吉の妹、朝日姫
を正室として迎え入れたのと逆のことをやっ
た。しかしその反面、この年の三月に家康は
征夷大将軍となり、江戸に幕府を開いている。
これでは豊臣家をないがしろにしていると思
われてもしかたない。
 征夷大将軍となって意気揚々としている秀
忠に家康は苦笑いして聞いた。
「秀頼様は今、何歳じゃったかのう」
「確か、十三歳にございます」
「十三か。まだここまで知恵ははたらくまい。
秀忠は誰の入れ知恵じゃと思う」
「家老の片桐且元あたりかと」
「ほほう。なかなか鋭いのう。将軍になって
ちとは貫禄がでてきたか」
「ははっ。それにしても豊臣家は秀頼の義理
の父であるわしを侮りおって。父上、これは
誅伐に値します」
「まあまあ、そうことを荒立てずともよい」
 家康は六男の松平忠輝を大坂城に派遣して
秀頼の顔を立てた。しかし波乱の芽は静かに
成長していった。