【小早川秀秋幻記】最終記 | 関ヶ原の合戦を演出した小早川秀秋

【小早川秀秋幻記】最終記

十月

冬が足早にやって来て、乾いた風が吹くと

最後まで、か細く鳴いていた虫の声もいつし

か消えていた。

やつれはて、以前の面影がなくなった秀秋

は殺風景な座敷の床に就き、もう起き上がる

ことは出来なかった。

障子を開けてもらい、わずかに見える夜空

を眺めた。

空気が澄み渡り、弓張月や星の輝きがより

際立っていた。

秀秋は満足そうに目を閉じ、再び開けるこ

とはなかった。

二十一歳の生涯だった。

 

 秀秋の最期を看取った平岡は、秀秋に跡継

ぎがいなかったので、小早川家がお家断絶に

ならないように養子を仕立てようとしている。

 平岡は秀秋があくまでも病死したように装

い、淡々と後始末をこなしていった。

誰もが秀秋は家康に殺されたと思っている。

しかしそれは口にできる雰囲気ではなく、自

分達を納得させる言い訳が欲しかった。そこ

で、秀秋は暗殺されたのではなく病死したと

いう儀式を行い闇に封印しようとした。それ

が養子を探すという平岡の行動で、誰もそれ

が異常とは思わなかった。

 この頃から人の中に見て見ぬフリという悪

習が根付き、権力に逆らわず迎合することが

忠義だとする、はきちがえた武士道が生まれ、

今に続いている。

当然だが、秀秋の養子は認められるはずも

なく、小早川家はお家断絶になった。

(なお、小早川隆景には弟の秀包(ひでかね)

がいたので、そちらの小早川家が今も続いて

いる)

すべてを整理した平岡は、秀秋に最期まで

忠義を貫いたということで家康に高く評価さ

れ、誰にも疑われることなく家康に召し抱え

られた。

家康の憂いがひとつ消えた。しかし、自分

の死期も近づいている。

焦った家康は、秀秋が悪行を犯しても処罰

しなかった寛大さとは対照的に、豊臣秀頼に

は寺に寄進した釣鐘の文字が家康を呪ってい

るなどと些細なことで難癖をつけ、頼りない

秀忠に計略を任せることもできず、自ら、大

坂冬の陣、夏の陣と立て続けに戦を仕掛け、

やっとのことで豊臣家を滅ぼした。

家康は最期まで跡継ぎに憂いを残し、この

世を去った。

                 おわり