秀秋の死後、徳川家康に仕えた家臣 | 関ヶ原の合戦を演出した小早川秀秋

秀秋の死後、徳川家康に仕えた家臣

秀秋が死亡した後、徳川家康が召抱えた秀秋
の家臣がいる。

稲葉正成は豊臣家から秀秋について来た。

関ヶ原の合戦の時に30歳と若いが小早川家
で筆頭家老になっている。

武勇に優れ、早くから家康に高く評価されてい
ただけに、豊臣家というエリートコースから外
れたショックは大きかっただろう。

表向きは秀秋の家臣として実績をつみ、いず
れエリートコースに返り咲こうと家康に取り入っ
ていたふしがある。

秀秋が狂い始めると身の危険を感じ逃亡して
いるので、秀秋の死を最期まで見届けること
ができず、何も知らず暗殺者を忍ばせる手伝
いはしていても、暗殺にはかかわっていなかっ
たと思われる。

稲葉の妻は後に3代将軍徳川家光の乳母と
なった春日局で、自分(家康)の孫を暗殺に関
係した者の妻に託すことは考えられず、その
意味からも稲葉は暗殺を知らなかったといえ
る。

平岡頼勝は流浪ののち、秀秋に仕えた家老
で、その以前に何をしていたのか不明で、家
康に関係していたのではないかといわれてい
る。

家康への使者役を務めることが多かった。

関ヶ原では秀秋に西軍を攻撃するように進言
したと伝えられ、家康から最大の功労者と評
価されている。

秀秋の死を最期まで見届けて、秀秋に跡継
ぎがいなかったので、お家断絶にならないよ
うに養子を仕立てようとした。

結局、養子は認められずお家断絶になり、
平岡は家康に仕えることになった。

秀秋の死を見届けたことや明らかにお家断
絶になるのが分かっているのに無駄なことを
していることから暗殺に深くかかわった有力
な人物だといえる。