秀秋の死と徳川家康の関係は? | 関ヶ原の合戦を演出した小早川秀秋

秀秋の死と徳川家康の関係は?

秀秋は関ヶ原の合戦で、自分の能力をあまり
にも強烈にみせつけてしまった。

徳川家康は驚きをとおりこして恐怖を感じただ
ろうし、秀秋が豊臣家との血縁関係もあり、将
来、豊臣秀頼と手を組み、豊臣政権再興に担
ぎ出されるかもしれないと考え、殺すことを企
んでも不思議ではない。

ただし、秀秋は戦功をあげているので、おおぴ
らに殺しては諸大名の忠節心がなくなる。
また、関ヶ原の合戦での秀秋の戦いぶりから、
すんなりと勝てる相手ではないことを思い知ら
された。
今後の秀頼とのことも考えると、すぐに戦う余
力がなかったので、暗殺することにしたのでは
ないだろうか。

家康にとって都合がよかったのは、秀秋が西
軍に味方したこともあり、裏切り者に仕立てる
ことができたこと。

秀秋の家臣が家康を信頼しきって、骨抜きに
なっていたので、家康の暗殺者が秀秋の居城
へ容易に出入りできたことなどだ。

この当時、ほとんどの人が医学の知識がなく、
狂った行動をすればタタリなどの神がかり的
な力としか考えなかった。そこで石田三成が
化けてタタッているという噂が利用でき、裏切
ると天罰があるということを思い知らせる効果
もあった。

家康は薬草に詳しかったので、アヘンなどの
人を狂わせる毒薬も知っていただろう。
それを秀秋の食事に少しづつ混ぜさせて狂っ
たように見せかけた。

家康が暗殺したという根拠としては、岡山を復
興させた秀秋が急に狂いだし家臣を殺すとい
う事件を起こしたうえ、他の家臣も逃げてしま
うという異常事態になっても家康は何の処罰
もしなかった。

それは秀秋が近いうちに死ぬことを知ってい
たからだとしか考えられない。

豊臣秀頼には、寺に寄進した釣鐘にケチをつ
けて2度も大阪城を攻撃し殺した執念深い家
康が、狂った秀秋を野放しにしていたのはあ
まりにも不自然すぎる。