秀秋は4時間、何をしていたのか? | 関ヶ原の合戦を演出した小早川秀秋

秀秋は4時間、何をしていたのか?

秀秋が合戦開始後、すぐに行動しなかった理
由は、徳川家康に内応した部隊が誰も動こう
としなかったのと同じように、家康の息子、秀
忠が3万の兵を率いているにもかかわらず、
関ヶ原にやって来ていないのが何故かを探っ
ていたからだろう。

秀忠が来れば秀秋の出番はない。

家康から領地を奪うことはできなくなり、自分
(秀秋)の身がどうなるか分らない。しかし、
兵卒を無駄死にさせずにすむ。

秀秋はもともと養子から養子に渡り歩いた根
無し草。
元に戻るだけだと覚悟していたかもしれない。

やがて秀忠が遅刻していることが分る。
その時の戦況はこう着状態になっていて、他
の内応している部隊がまだ誰も動いていない。

秀秋が出陣するのに最高の舞台が整ってい
たが、一番近くにいる攻撃対象の西軍、大谷
吉継は秀秋を警戒している。
このまま出陣すれば正面攻撃になり兵卒の
損失が多くなる。

松尾山の方を向いている大谷隊の斜め前方
には家康に内応している赤座直保、小川祐
忠、朽木元綱、脇坂安治の部隊がヘビに睨ま
れたカエルのように大谷隊の威圧で動けなく
なっていた。

秀秋は大谷隊を誘導して、赤座、小川、朽木、
脇坂の部隊をうまく利用する方法を考えてい
たのではないだろうか。

それが戦況を大きく動かすことになる。