徳川家康に内応した部隊はなぜ動かなかったか? | 関ヶ原の合戦を演出した小早川秀秋

徳川家康に内応した部隊はなぜ動かなかったか?

合戦が始まってすぐに徳川家康に内応した部
隊が誰も動こうとしなかったのは、家康の息子、
秀忠が3万の兵を率いているにもかかわらず、
関ヶ原にやって来ていなかったからだ。

秀忠の3万の兵を温存している理由が分から
ず、自分達だけを戦わせようとしていると思っ
たかもしれない。
また、内応した部隊がもし寝返って戦った後、
秀忠がやって来て「裏切り者」として攻撃され
れば、疲れた状態で戦わなければならず、ひ
とたまりもない。

「この合戦が終われば政治は安定するだろう。
そうなれば力だけの武士は必要なくなる。それ
に、すぐに寝返るような者は信用できない」
家康なら考えそうなことだし、寝返る者にはそ
れだけのリスクがある。

また、内応した部隊にとっては家康から事前
に聞いていた戦い方(時間や場所)とは違い、
秀忠が来ていないので東軍の陣形は整って
おらず、西軍が有利に見える。
そこに一瞬の迷いが生じ、戦うタイミングを失っ
た。

家康が秀忠の兵力を温存しているのか、ただ
到着が遅れているだけかを戦場で知ることは
難しかっただろう。

結局、松尾山にいた秀秋が早く秀忠の遅刻を
知ることができ、出陣することになったと考え
られる。

関ヶ原の合戦に間に合わなかった秀忠だが、
もし合戦に参加していたとしたら、秀秋の出番
はなかったかもしれない。

秀秋を目立たせる結果にしたのは秀忠だった
可能性がある。