人間はどこまで馬鹿なのか? | 悠釣亭のつぶやき

人間はどこまで馬鹿なのか?

人類の歴史は殺し合いの歴史と言ってもよい。
領土、カネ、宗教、人種、恨み、恐怖、およそ人間の持つ
根源的な欲望や精神状態が他の存在を許さない状況まで
高まれば、簡単に相手を殺す行動に走る。
これほどまでに闘争的な種は地球上に他に存在しないと
言ってよい。



闘争の前には、論理が通ろうが通ろうまいが、自己の正当性の
主張をあくまでも貫く。
相手の横暴や不道徳や不正を、あくまでも主張する。
そこには、相手を慮ったり、相手の立場を尊重する気配さえ
無い。
その主張に対する反対の意見や行動は圧し潰す。


そして、相手に勝る殺し道具の発展は目を瞠る物がある。
大昔は素手での格闘やせいぜい噛み付くくらいだったものが、
棍棒を使い、剣を使い、飛び道具を使い、火薬を使うように
なって、一人の人間が何人を殺せるかの比率が飛躍的に
向上?した訳だ。
そして、究極の兵器といわれる核兵器が出現するに及んで、
その比率が無限大と思える程度にまで拡大した。


一方で、無人兵器に代表されるように、敵方の死傷者数は
少なくても、攻撃側の死傷者がゼロで、結果として比率が
無限大になる兵器が出現するに至っては、事ここに極まれりの
感さえある。



人間には欲望があるから、ここまで発展してきた訳だが、その
欲望が『他を駆逐してまでも』となった時に、世界が変わったと
思われる。
『共存』の道を探るのでなく、『駆逐』や『征服』という、殺しを
是とする考えが根幹になったと言える。
相手の痛みや悲しみは置き去りにされ、自分さえ良ければ、
他人はどうなっても構わないと言う考え方が主流となった。
その背景に、『悪いのは相手で、自分が正義』なる思い込みが
あるのは明らかである。
例え、自己の欲望のなせる闘争であったとしても、それを妨げる
相手が不正義となってしまうのである。
そのためには、どんな理論武装もする。
『片方の正義は他方の不正義』という考え方は存在すらしない。


この状態を救う術はあるのだろうか?
宗教は救えるか?
否、むしろ闘争を煽る結果になって来たではないか!宗教は
それ自体が自己中心主義である以上、むしろ闘争を煽る側に
あろう。
非暴力闘争は?
それこそが暴力の思う壺であった。
闘争を忌避する相手ほど組しやすい相手は無いのだ。
思想は?
反対思想との対立が大きな闘争を生むことは自明であろう。



結局は相手に勝る暴力しか、対応の手段が無いのである。
かくして、より強力な暴力の開発と保有を競い合う、現代の構造が
生まれたと言ってよい。
そして、今や、本気で戦えば、世界を破滅させるほどの武力を
保持し、それでも安心できずに、例え世界が破滅しても自分
だけは生き残りたいと言う、尽きぬ欲望の虜になっている。
そこには、不安、焦燥、恐怖、猜疑心、不信感等々、人間の持つ
あらゆる不道徳がギッシリと詰まっているのだ。


最後には、武力で勝って相手を屈服できると考える側が攻撃を
仕掛け、止めどない闘争の果てに人類全体が破滅に陥る所まで
行かないと終わりにならないのではないのかな。



はなはだ退廃的、厭世的で申し訳ないのだが、この先に僅かでも
光明が見えるのだろうか?
是非ともそうあってほしいのだが、結局は人間が馬鹿である限り、
行き着く先は、遅かれ早かれ、そこへ行き着いてしまうのではなか
ろうか?
人間に欲望がある限り、地球という限られた空間に住まざるを得ない
限り、そして、人間が馬鹿であり続ける限り、他に答えは無さそうだ。


ま、そうなるまでには結構時間が掛かりそうだから、今を少しでも良く
するための活動は必須だし、結果として、終末への時間が遅れたり、
新たな答えが出てきたりするかも知れないから、諦めずに行動し、
今を楽しく生きるしかないのは事実なんだよね。