新聞小説「春に散る」(5)沢木 耕太郎 | 私の備忘録(映画・TV・小説等のレビュー)

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作:沢木 耕太郎 挿絵:中田春彌 9/18(166)~10/18(195)

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感想
広岡がボクシングに関わる事になったいきさつが描かれる。

頭脳明晰な事がボクサーにとって必要な資質である、という洞察は優れているが、それでは世界チャンピオンに届かない・・・・
この辺りはけっこうな示唆に富んでいて、記憶に残った。
しかしヘミングウェイの短編、確かに「勝つために負ける」という逆説を活かすためだけのものであり、底は浅い。

五万ドル手に入れちゃうんだから。

 

だがこのエピソードの中に会長の娘の令子が全く出て来ない。

故意に伏せているのか?ここまで明確にシカトされると、後にその話を細かく描写されても、ちょっと共感し兼ねるなぁ・・・・

 

あらすじ

埠頭17~46
広岡は大学に入ってすぐ肩を痛め、荒んだ気持ちの末に電車で若者とケンカになり、一発でノックアウトされた過去があった。

その日以来、あの男はボクサーだったのではないかとの思いがあった。翌日、野球部の寮で試しに右パンチを出してみて驚く。

野球で投げる時は悲鳴を上げた右肩がなんともない。

次第にその力を増して行っても肩は全く大丈夫だった。
自分にはボクシングというスポーツが残されていた。

広岡は本屋でボクシング雑誌を買い、そこの興業カレンダーに載っていた水道橋での試合を見に行った。

その全試合を息を詰める様にして見た広岡。
寮に戻ってからボクシング雑誌を読み返し、そこにジムの練習生を募集する記事を見つけた。

「真田拳闘倶楽部」そこの条件にあった「頭脳明晰な者に限る」という一文に興味を持ち、そのジムを訪ねる広岡。
ジムではシャドゥボクシングをしている若いボクサーとそれを指導する老人がいた。広岡に気付き、声をかける老人。

募集広告を見て来た事を知ると、合宿生になるには試験があるという。土曜の午後なら会長が来るからその時にまた来いという。

 

土曜にジムを訪れた広岡。

出迎えたスーツ姿の穏やかな男性が会長の真田浩介だった。

体育会系の応対をした広岡に対し、普通で良いと言う真田。
どうしてボクシングをやりたいと思ったかについて尋ねられ、野球をやっていて肩を痛めた事を正直に話すと、全てを話すのではなく、必要なことを話せという。
広岡は自暴自棄になって電車で若者に一発でノックアウトされた事を話した。真田の眼の輝きが違って来た。
君は頭がいいか?と尋ねる真田。

学校の成績などはどうでもよく、頭がいいかどうか。
真田は広岡に一冊の本を渡し、一週間後に感想文を書いて来るように言った。

 

指定されたのは「ヘミングウェイ短編集」の中の「五万ドル」という50ページほどの短編。

ベテランボクサーのジャック。若いボクサー、ウォルコットとの試合を前に、ろくに練習もせず前日には大酒を飲んだ。
試合当日、前半は試合巧者のジャックが優勢だったが、後半はウォルコットが盛り返していた。ジャックはダウンし、その後立ち上がるも、追い詰められる。

だがそこでウォルコットは反則のローブロウを放った。

ここで倒れたら相手が反則負けになってしまう。
実は試合前日、暗黒街の賭け屋に対し、ウォルコットの勝ちに五万ドルを賭けていた。ここで倒れるわけには行かない。

ジャックは必死で反撃し、今度は逆にさっきと同じローブロウをウォルコットに浴びせた。ジャックは規定通り反則負けを取られ、五万ドルの賭けに勝った。

 

広岡はくだらない話だと思ったが、真田の言葉を思い出し「考えてみよう」と思い、何度も読み返した後、かつて学校でもこれほど、と思えるほど熱心に感想文に取り組んだ。

 

次の土曜にジムを訪れた広岡。真田は感想文には目を通すことなく広岡に質問した。何度読んでも全く面白さが判らなかったと言う広岡。

あの小説には自分がなりたいと思える人物はおらず、ボクシングの魅力も伝わって来なかった。
ただ、大逆転する場面は面白かったという。勝ちたくないために倒れず、負けるために相手を倒す。それと、ボクシングは自由。

勝ち負けを自分で選ぶことが出来る。野球にはそれがない。
真田が語るボクシング論。無限に自由で、無限に孤独。

「このジムに入ってくれますか」と言う真田。

それについての条件がひとつだけあった。大学を続けること。

 

真拳ジムは、会長の真田が理想のボクサーを育てるために作った。旧知のトレーナー、白石と共に始め、通いではなく合宿生という形態を取った。最初に来たのは藤原。そして二番目が広岡。

その1ケ月後に佐瀬が入り、最後に星が入って来た。
星がジムに来た時、目が離せなくなってしまった広岡。

駅ホームでの若者は星だと確信した。星もその事を覚えていた。

 

それぞれが親しくなり始めた頃、試験の話になった。

「五万ドル」の感想文は皆に出された問題だった。それぞれが話す小説の感想。

だが藤原が、感想文は合否とは無関係だったと言った。

判断基準は感想文を書いて来るかどうかだけ。たいていの者は恐れをなしてやって来なかった。来たのは変わり者の、この四人。

 

四人は一年後にデビューすると、全員が快進撃を続けた。

だが誰ひとり世界チャンピオンになれなかったという事には、何か限界があったのかも知れない。

頭脳の明晰さは、果たしてボクサーに必要なものだったのか。

 

星の部屋を出て、しばらく行った路地に「しおり」という店を見つける。

それが星の店「まこと」に雰囲気が似ていたため、広岡はふと入った。和服を着た年配の女将。

生ビールの後、品書きにある「しおりセット」を注文。

つまみを褒めると共に「しおり」が貴女の名前かと聞く。

尋ね返す女将に、この先の店に女将の名前を店名にしているところの話をすると、驚いた女将。
真琴は二十年ほど前に関内のクラブで、女将の下で働いていたという。十年ほど前に今のところへ「まこと」の店を始めた。

 

真琴は胸の病気を患っていたらしい。真琴がクラブのママを辞めて小料理屋を始めたのは、付き合っていた男のためだったという。思わず星の名前を出してしまった広岡。逆に驚く女将。

女将は星の事も知っていた。
星はたちの悪い相手との博打で大きな借金を作っており、真琴は自分のマンションを売り払い、貯金もはたいてその返済を肩代わりした。
改めて、日本に帰って来てからの事を思い返す広岡。

離散、孤立、喪失、病苦。

四人みな、年取った者が見舞われた困難の前に立ちすくんでいる。