屋敷跡を見なきゃ、茶人ではなひ!!
見てきました。
・・・屋敷跡ってどこまでが、跡?
木は違うし、飛び石もなんかわざとらしい。
手前は新しい。奥は古い。
灯篭のとこにつくばい?きゃ?
そもそもここは屋敷のどの部分??
なんて~ 謎 の多い利休屋敷跡。
利休は豪商魚屋(ととや)田中与兵衛の長男。
さかな屋?
と思いきや、実は倉庫業。
貿易が盛んな港町であった堺において、これから運ぶ荷物を置いておく場所が必要であった。
そこで登場、納屋衆。(倉庫業)
長男やのに、与四郎という名前。
不思議。
北向道陳に茶を習い、その師である武野紹鷗に習う。
田中与四郎は茶名、千宗易といい信長、秀吉の茶頭として仕えた。
そして、正親町天皇より千利休居士という名を賜った。
祖父は、足利将軍家の同朋で千阿弥 といいそこから千を取った。
ちょっとこの千阿弥に注目!!
阿弥がつくのは、足利義政の同朋衆の証。
みんな時宗の流れで、名前+阿弥陀仏という感じのネーミング。
一応、時宗もまとめます。
時宗は鎌倉末期に起こった、浄土宗の一派。
親鸞も一遍もそうだが、新しい宗教という気はなかったそうな。
浄土宗→阿弥陀如来を信じ、お経を唱え続ければ天国へいける。
浄土真宗→阿弥陀如来を信じ、お経を一度唱えるだけで天国へいける。
時宗→阿弥陀如来の信仰に関係なく、お経を唱え続ければ天国へいける。
となった。
時宗は寺を持たなかったので、あまり発展しなかったという噂。
これは聞いた話。
この千阿弥は足利義政の同朋衆。
つまり、東山文化にどっぷり浸かってたおっさん。
ちなみに同朋衆は河原者も含まれ、庭師で有名な善阿弥も河原者の同朋衆。
庭師なんて、そんなもの。改めて実感。
このおっさんが、義政のとこで何してたかはしりませんが東山文化で茶にもいそしんでたはず。
そこから、堺に行き、息子が倉庫屋で大成功。
そして、孫が茶で茶聖となる。という流れ。
おもろおま。
抛筅斎(ほうせんさい)と名乗った時期もある。
まぁ昔のことで諸説あるのは当然!!
利休の名前の意味は
「利心、休せよ」
才能におぼれずに「老古錐」の境地を目指せ
だそうです。
金物好きにはたまらん名前。
古くて先の丸い錐ね~。
しかし、
老古錐ってどんな境地??