はい、この前知人に「ガンダムは見るくせにマクロスは見ないのか!この非国民め!」と言われ、1時間かけてマクロスの素晴らしさを延々と聞かされ、ついにはマクロス初代の絵柄がちょっと苦手だと伝えると、洗脳プログラムとして見せられたコテヤンです(笑)
・・・・・んで相変わらず絵柄が古くて苦手なんですけど、見てるうちに「これはコールリッジの言っていた『行き過ぎた文明』の帰結を表している!」という非常に哲学的視点ではまりまして(笑)
[壁]д・)チラッ ク、クリック…
んで文化、文明の説明にもちょうどいいので、今日は番外編としてココらへんを書いてみようかなと。
マクロスの設定を端的に書きますと地球にゼントラーディ軍(巨人軍)の大艦隊が攻めてくるわけなんですが、実はこのゼントラーディ軍は文化を持たない戦闘種族のような人たちです。作中の中でもきっぱりと「争い有る所に生命は存在する!」ともう戦うことしか頭にないわけですね。
そしてゼントラーディ軍の特徴としては、男女は別々に暮らすものであり、文化という概念を持たないものであり、自分たちの船の修理もできないのにオーバーテクノロジーを数々持っている、という不思議連中です。
更に言うと民間人が一人もいない、全て軍人というキチガイ的な軍事国家みたいです。国民皆兵というわけでしょうか?
彼らは小さな人間をマイクローンと表現し、またそのマイクローン(地球人)の持つプロトカルチャー(文化)を非常に何故か恐れているわけなんですね。
つまり哲学的には彼らゼントラーディ軍は非常に合理主義、機械論哲学的な存在で、さらに全体主義的に統率が取れておりまして、行き過ぎた文明の権化として描かれているような気がします。
ゼントラーディ軍は地球軍との戦闘、捕虜などによって「キス」という愛情表現に驚いたり、またはスパイを送り込むと歌や民間人が色々な服装をしていること、お祭りがることなどにいちいち驚くわけです。
ゼントラーディ軍から見れば「非合理的」であり「反知性的」であり、脆弱に写るわけですが、なぜかそこにそこはかとなく魅力を感じていくというストーリーになっています。
さて、考察してみますと合理主義、機械論哲学的な彼らは本来であれば「共同体」を形成することが非常に難しいはずでしょう。
だからこそ「軍」という「戦争のための合理的組織」にすべてのゼントラーディ人が所属して、なんとか統率を保っていた、と言う解釈が可能です。
そして特徴的なのは、彼らはオーバーテクノロジーを持ちながら、その修理技術を持っていないことです。これではいつか滅んでしまうのは必然で、それは文明の過剰が衰退を招く、というコールリッジの言葉を思いおこさせるのです。
作中には「お金」という概念が全く出てこないのですけれど、もしかしたらゼントラーディ軍は共産主義のようなものだったのかもしれません。
服は軍服だけ、といのもなんとなく中国の人民服を思い起こさせますし、料理もレーションみたいなものしかなかったと推測されます。
これではスパイに来たゼントラーディ人が、地球のプロトカルチャーにハマってしまうのも無理はありません。
しかし物語の後半でプロトカルチャーに愛着を抱いた先発隊のゼントラーディ軍が地球に味方し、ゼントラーディ軍本体を一緒に迎え撃つのですが、その協力体制のもとに色々と調べるとゼントラーディ人は地球人と全く一緒のDNAであり、実はマイクローンに作られた「戦闘兵器なのではないか?」という疑惑が浮上します。
その星は恐らくこれまでにゼントラーディ軍によって滅ぼされている、と思うのですけど、これまた合理主義に走り過ぎたマイクローンの生み出した悲劇、衰退を表しているのだとすれば、中々深い話だなぁ…
などとマクロスの初代を見ていて「このアニメは案外哲学的」と思ったのですね。
しかし優れたアニメと言うのはとにかく人の共感だとか、もしくは人間に対する深い洞察だとかがあるのだと思うのです。
これはアニメだけに限らず、小説や漫画、そういった作品でも同様だと思うんですね。
そして哲学も人間の観察と本質に迫るものである以上、優れたアニメや漫画、小説が哲学的であることはもしかしたら自然なことなのかもしれません。
んで知人にこの事を話すと「そういう見方するのコテヤンだけやと思う…」と言われながら、目の前でググられ、やっぱりその見方はコテヤンだけだった…という結果をつきつけられました(笑)
な、何故だ!!!
んでそれが本当なら、まぁマクロスを哲学と絡めたりして書くのも一興、と思い本日の号外でしたとさ。
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