アメブロからメッセージをいただくのですが、何故かこちらから返信出来ないみたいなので
とても申し訳なく思います。優しさをどうもありがとうございます!お気持ち感謝いたします!
お詫びに最近755で絡んで下さってる方がご紹介して下さった
素敵だなぁ~と思った詩があるのでそれを載せておきますね。
汚れちまった悲しみに
中原中也
「汚れちまった悲しみに・・・」
汚れちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れちまった悲しみに
今日も風さえ吹きすぎる
汚れちまった悲しみに
たとえば狐の皮衣
汚れちまった悲しみは
小雪のかかってちぢこまる
汚れちまった悲しみは
なにのぞむなくねがうなく
汚れちまった悲しみは
倦怠のうちに死を夢む
汚れちまった悲しみに
いたいたしくも怖気づき
汚れちまった悲しみに
なすところもなく日は暮れる
「中原中也とこの詩について」
自分の悲しい思い出というものは、全て純粋なものであり、美しい思い出となっているんですよ。何故悲しかったのか、ということが人間の純粋性に繋がっているわけ。自分の思いが届かなかったということが悲しみなんですね。本当に欲していなければ、人間は悲しいとは感じない。全ての芸術の根源は、この「悲しみ」にある。届かなかった、出来なかったことを今、ここに語ろうとすることが、芸術を生み出す。
そういう自分の悲しみが詩人の中にもあった。しかしそれを「汚れちまった」と言っている。それはどういうことなのか、ということですね。
汚れたということは、純粋なものでなくなってしまった、ということなんです。
つまらない構文的な解釈をする人間もいるようだけど、そういう学校教育のような真似をすれば詩は死ぬ。
中原中也は、生きている間に名の売れた人間なんですね。詩人として、結構な詩を創作する人間だと目された。
そのことが若い中原に影響しなかったはずがない。
自分が詩を求めていく中で、自分がいつもどこかに名声を考えている部分があることを気付かざるを得なかった。
自分が悲しみをエネルギーに何かをしようとするたびに、詩人は悲しみを利用する自己を感じていたに違いないんです。
第一段では、自分の悲しみというものを客観的に見ている。まるで外に取り出して地面に置いたような状態ですね。それはただ汚れていることを認識しているだけで、そこに肌寒い、さらに少し薄汚れれるような自然現象が描かれている。
これは詩人が自分の悲しみというものになす術もなく当惑していることを示しているんです。
第二段は狐の皮衣という表現が出てくる。これはつまらない獣の皮でとりあえず覆ってはみたものの、それが小雪によって縮んでしまい、かえってみすぼらしい、また一層汚れたものに見えるようになった、ということ。
つまり、自分が拙い足掻き方をして、どうにもならない苦しみを描いている。
第三段は自分が悲しみを持て余すうちに、もう悲しみが死に果てたいと思っている様を描いている。
詩人は何とか悲しみを純粋に思い出したいんですね。自分の欲望などと結び付かず、美しいものとしてただ甦らせたい。
それなのに、悲しみが死を望むということは、詩人自身が美しく思い出すことが出来ず、そこにさらに深い悲しみを抱くようになったことを示している。
この段だけが、「悲しみ」自体の意志を持たせているんですね。それは詩人の中で、悲しみがもう自分から離れてしまった、つまりもはや自分の自由になるものではなくなったことを歌っているんです。
第四段は自分から遠ざかった悲しみに、もう恐れしか抱かず、自分には手が出せない様子が描かれている。
中原は大事な思い出を失ったんです。その壮絶な悲しみというものが詩人として彼を前に進ませていたんです。