大河ドラマ「西郷どん」に、橋本左内が登場した。
「まるで女性のような優しい感じの人だった」と西郷さんは云ったとか。
20年ほど前、左内のふる里・福井を訪ね、橋本左内にふれ、感動した。
今回、明智神社参拝の帰り、久々「左内公園」へ。
当時、橋本左内に感じ入った私は、とある会報にこんな寄稿を書いた。
………越前・福井市へ行った折、私は幕末の天才学者といわれた橋本左内の墓所を訪ねました。
市内の「左内公園」と呼ばれる公園の中央に、きりりとした精悍な顔立ちの橋本左内像が、左手に太刀を握ってそびえたっていました。
公園内の墓所に、「景岳先生之墓」と刻まれ、左内は家族の墓と並んで眠っていました。
江戸で処刑された後、ここに移葬されたといいます。
また左内の自著「啓発録」の主旨を刻んだ石碑も建っていました。
橋本左内は福井県の誇る大学者です。
地元の小中学生・高校生はその著「啓発録」は必ず読みなさいと、よく両親や先生から言われるとのことです。
左内は若くして越前藩の藩校・明道館を主宰し、洋学教育を推進、
また藩主・松平春嶽の政治顧問として江戸・京都を奔走して活動、
他藩の武士や学者と交流し、
幕末の政治の流れに大きな影響を与えました。
ところがその精力的な活動が大老・井伊直弼ににらまれ、吉田松陰らとともに安政の大獄で処刑されてしまいます。
なんと享年26。
▼東京・回向院の左内墓
世はその若き死をおおいに惜しんだといいます。
あの西郷隆盛も左内の死を知ったとき、
「ああ、貴き人物を!悲憤耐えがたき…」
と落涙しその死を限りなく嘆いたといいます。
また左内が投獄されていた江戸伝馬町獄舎の牢名主でさえ、若き左内の人格を敬い、
「かわれるものなら私が…」
と、その処刑を悲しんだとも伝えられています。
そんな左内の勉学ぶりはどうだったのでしょう。
幼い頃から寸暇を惜しんでひたすらまじめに勉学に努め、10歳で「三国志」全六十五巻を通読、15歳で「啓発録」を著したというのです。
そこには、
「去稚心=子供じみた甘えをしてはいけない」
「振気=無学を悔しく思い人に負けぬように努めよ」
「立志=自分の目標を定め勉強せよ」
「勉学=優れた人物の行いを見習え」
「択交友=自分が向上する友をえらべ」
5つの人としての、そして自分に言い聞かせるための心構えをこと説いています。
15歳にして!
幼い頃からの寸暇を惜しんでの努力が単なる秀才を作るだけでなく、人間としても「極致」に近いところまで押し上げたのでしょうか。
友人については、
「自分の過ちを遠慮なく指摘してくれる友は大切にせよ」と。
実に冷徹な目です。
「友人が最も大切!」
などとよくいう現代の若者たちにも充分通用する内容です。
左内のみならず、江戸時代・幕末の学者の多くは和漢の書物を幼い頃からひたすら読み習ったといいます。
新井白石、中江藤樹、二宮尊徳、そして吉田松陰、佐久間象山、それぞれの猛勉強ぶりの伝説はよく知られています。
「意味もよくわからず、強制的にマル暗記するのは苦痛なだけ」
「機械的な暗誦では、ますます勉強嫌いになってしまう」
などと、マル暗記中心の勉強を批判する人も多いのですが、後世に名を残した人物はそのマル暗記した内容を基礎にして発展・応用させ、自分の学問の領域を広げていったのです。
頭脳の柔らかい10代の頃は暗記・暗誦が驚くほど出来ることは、私たち大人が一番よく知っています。
また「勉強すればするほど分からないことが多くなり、また勉強することになる」ということも、私たち大人はよく知っています。
お父さん、お母さん方いかがでしょう。
一度子供達とマル暗記を競ってみては?
負けるのは間違いなく親です。
勝った子供達は自分の記憶力・暗記力に自信を持ち、勉強に「やる気」が復活するかもしれません。