武田勝頼⇒下の巻
長篠の合戦直後、勝頼は次のような通達を家臣に示している。
「これからは鉄砲が肝要。長槍よりも鉄砲を撃てる足軽を育てよ」
「弓鉄砲の鍛錬をしていない者を戦さに連れて来てはいけない」
また軍事に関する「各々ガ存ジヨリノ手立テ」を上申せよ、と家臣に意見を求めている。
決して大敗を落胆などして落ち込んでいないのだ。
更に財務担当の御蔵前衆に諏訪の商人などを抜擢、財政の刷新をはかるなど、かつてない革新的な策を積極的に進めている。
そして家臣通達の第一条では、この準備は、
「来年尾張・美濃・三河へ進軍、信長と干戈を交え武田家興亡の一戦をするがため」
と明言している。
勝頼は消沈するどころか、信長に復仇の大兵を起こさんとただならぬ決意をしている。
そんな勝頼の動きを察知したのか、長篠合戦から2年後、信長は勝頼に使者を送った。
いわく、「長篠のことは水に流し和睦したい。そしてともに上杉を倒したならば、北陸一帯は『勝頼公御支配モットモナリ(甲陽軍鑑)』」
つまり信長は、「北陸一帯を勝頼に任せる」というのだ、なんという信長の低姿勢か。
しかし勝頼はこの信長の提案を敢然と拒否、逆に上杉と和を結んだ。
信長との再決戦を深く期していた勝頼としては筋の通った判断といえよう。
仮に信長と和を結んだとしても一時的のこと、いつかは信長と全面対決して雌雄を決せねばならないのだ。
この時の信長と絶縁した判断に対して、「勝頼は外交下手だった、情勢認識が甘かった」などと批判する論客もいるようだが、まったくもって結果論からの評である。
しかし武田をめぐる状況は甘くなかった。
上杉と結んだものの、東の隣国・北条とは離反となった。
信長との決戦に備えて天正8(1580)年には、鉄砲玉10万発を準備していたのだが、翌年、高天神城を家康に奪い返され、結局籠城していた城兵を救援出来ず見殺しにした。
このことが「勝頼無能論」に拍車をかけたといってもよい。
勝頼はしだいに追い込まれていった。
信州・茅野市の上原城。
武田氏が南信州を支配する要の城。
かつて信玄が滅ぼした諏訪氏の居城だった城
山城の頂からは眼下に諏訪平、彼方には諏訪湖・杖突峠を望める。
勝頼の祖父・諏訪頼重の居城であり、母・諏訪御料人の生まれたゆかり深い城である。
天正10(1582)年2月、勝頼は木曽義昌が信長と通じたのを知り、その討伐にこの上原城に出撃してきた。
ところがそこに、「駿河の穴山梅雪謀反!」の急報が。
「なんということか、義昌も穴山も、我が親族衆ではないか!」
義昌の妻は勝頼妹、穴山梅雪妻は叔母であった。
かくして信州口から信長勢が、駿河口から家康が甲斐に攻め入ってきた。
勝頼は上原城から撤退、さらに新装したばかりの居城・新府城を焼き捨て、躑躅ヶ崎館も灰にして天目山に追いつめられ、わずかな家臣・家族とともに自刃し果てた。
上原城撤退からわずか3か月余。
無残、無念としかいいようのない勝頼の死路である。
海音寺潮五郎氏は「武将列伝 武田勝頼」の中で、勝頼の最期についてこう記している。
勝頼の最期は、「あまりに悲惨な事実がつづくので、ぼくは書き続けるのに気が重い。読者諸君だってそうにちがいないと思うが、ぼくはがまんして書いています。がまんして読んでいただきたい」
その心情、私にも痛いほど伝わってくる。
多くの家臣が討たれ、離散していく中、わずかな勝頼勢に襲いかかる織田勢の前に、一人敢然と立ちはだかるもののふが躍り出た。
「殿(勝頼)、ここはみどもにおまかせあれ、お早く!」
と、土屋惣蔵昌恒は殿軍を引き受け、道幅の最も狭い地に立ちふさがって抵抗した。
藤のつるにつかまり片手で太刀をふるい、迫る敵を崖下に蹴落とした。
「土屋惣蔵千人斬り」の異名がうまれた所以である。
この鳥居畑の戦いの古戦場に、惣蔵の顕彰碑が川渕の断崖に立てられている。
だが、勝頼一行に最期のときが迫っていた。
勝頼最期の地は、山梨県甲州市大和の景徳院である。
境内の供養塔・自刃の地・辞世の句碑などが、その死の哀しみを誘う。
信長との再決戦までもう少しだった。
もう一度、勝頼と信長の大会戦、見たかったというは不謹慎か…。