$何かおかしいよね、今の日本。

戊辰戦争当時の長岡藩家老・稲垣平助の六女である杉本鉞子(えつこ)をご存知だろうか。

明治19年に15歳で単身上京し、23歳で結婚のために渡米。和骨董店を営んでいた夫の死後に一時は日本に帰国したが、再び二人の幼い娘達を連れて渡米。その後、日本文化について書くライターとなり、やがてはコロンビア大学の講師にまでなった女性である。彼女が英語で執筆した“A Daughter of the Samurai (武士の娘)”はアメリカでベストセラーとなり、7ヶ国語に翻訳された。新渡戸稲造の『武士道』同様、諸外国に武士の精神について広めたこの本は鉞子の半生を綴ったもので、当初は雑誌 “Asia”で連載されていたシリーズに加筆した内容。武士道は古いという風潮が強まっていた明治期においても、侍の精神を疑うことなく守り続けていた稲垣家で厳格に育てられた鉞子の物語は、子々孫々と受け継がれてきた日本の倫理観、美意識、そして叡智に溢れている。

以下は国際派日本人養成講座よりの転載です。
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257Enippon/jogdb_h21/jog618.html

武家の娘(上) ~ 千年の老樹の根から若桜

武家という「千年の老樹」に生まれ育った娘は、若桜として異国の地に花を咲かせようとしていた。

■1.「どうして日本の着物を着て来たのですか」■

 1898(明治31)年、アメリカ東部のある町。大陸横断鉄道の
列車が停まると、長袖の着物姿のうら若い日本人の娘が降り立っ
た。プラットフォームの人混みの中では、一人の日本人青年が
汽車から降りてくる乗客を熱心に見守っていた。お互いにすぐ
に相手に気がついた。青年の第一声は「どうして日本の着物を
着て来たのですか」と不満そうな言葉だった。

 娘の名は稲垣鉞子(えつこ)、25歳。鉞子は明治5(1872)
年、越後の長岡藩の城代家老を代々努めてきた稲垣家の6女と
して生まれ、アメリカで貿易商を営む杉本松雄と結婚するため
にアメリカにやってきたのだった。

 鉞子が日本を発つとき、何を着ていくかが問題となり、親族
会議まで開かれた。兄は洋服で行くことを主張し、東京の叔父
も賛成したが、祖母は物静かに、しかし威厳をこめて言った。

 絵で見ると、あの筒っぽ袖は品が悪くて、まるで人足の
着る半被(はっぴ)のようですがの、私の孫が人足を真似
るまでになる時節が来たかと思えば、情けないことですわ
い。[1,p181]

 この席では一番偉い祖母の意見が通り、結局、洋服は米国へ
行ってから夫の意のままにすることとして、花嫁の方では和服
のみを用意することとしたのである。

 松雄は世話になっているウィルソン夫妻の手前を思って、着
物に関して不満を言ったのだが、鉞子を連れて行くと、夫妻は
真心を込めて温かく出迎えてくれたのだった。

■2.「お嬢様、そんな気持ちでは勉強はできません」■

 鉞子の育った稲垣家は家老職の家柄だけあって、明治維新後
とは言え、鉞子は幼い頃から厳格な躾をうけた。

 数えで6歳、満で言えば4、5歳の頃から、家の菩提寺の僧
が、3と7の日に家にやってきて、鉞子に四書、すなわち大学、
中庸、論語、孟子を教えるようになった。

 広い明るい、埃一つなく掃き清められた部屋に文机が置かれ、
お師匠様は優しい顔でそこに座って、2時間ほどは手と唇以外
は、身動き一つせずに講義をした。

 数えわずか6歳の幼女が論語など分かるはずもなかったが、
鉞子が時に何かを質問しても、お師匠様は「まだまだ幼いので
すから、この書の深い意味を理解しようとなさるのは分を越え
ます」「よく考えていれば、自然に言葉がほぐれて意味が判っ
てまいります」と答えるのみだった。

 鉞子は何も理解できなかったが、音楽のような韻律のある言
葉をあれこれと暗唱していった。後に成長するにつれて、よく
憶えている句がふと心に浮かび、雲間から漏れた日の光の閃き
のように、その意味が理解できることがあった。

 お師匠様と相対している間、鉞子は畳の上に正座したまま、
微動だにも許されなかった。ただ一度、ほんの少し体を傾けて、
曲げていた膝をちょっとゆるめたことがあった。

 すると、お師匠様の顔にかすかな驚きの表情が浮かび、やが
て静かに本を閉じて、やさしく「お嬢様、そんな気持ちでは勉
強はできません。お部屋にひきとって、お考えになられた方が
よいと存じます」と言われた。

 恥ずかしさの余り、鉞子の小さな胸はつぶれんばかりだった
が、どうしたものやら判らないまま、お師匠様にお辞儀をして、
部屋を退出した。成人してからも、鉞子はこの時のことを思い
出すと、古傷の痛みのように、心を刺される思いがした。

■3.極寒の朝の習字稽古■

 勉強している間は体を楽にしないということは僧侶の習わし
であったので、それに従って寒三十日(1月5日頃の小寒から
2月4日頃の立春まで)の間は、難しいことを、時間も長く勉
強させられた。特に最も寒さの厳しい9日目の「寒九」の日の
ことは忘れられない。

 この寒九の日、東雲に暁の光がさし始めると、乳母のいしが
鉞子を起こした。肌を刺すようなきびしい寒さだった。この日
は習字の稽古をすることになっていた。硯(すずり)、筆、墨
などの道具を揃える。学問は非常に貴いこととされていたので、
用いる道具も、一つひとつ丁寧に絹の布で拭いてあった。

 用意ができると、いしに背負われて、庭に出て、庭木の枝か
ら雪をとり、これを硯に入れる。庭は降ったばかりの真白い雪
に一面覆われていた。時折、雪の重みに耐えかねた竹が、鋭い
音を立てて折れると、灰色の空にぱっと粉雪が舞い上がるのだっ
た。

 居心地をよくしては天来の力を心に受けることができないと
いうことで、火の気のない部屋で習字をした。精妙な筆のあや
には、心の乱れや不注意は覆うべくもなく現れるので、一点、
一画にも心をこめて筆を運ばなければならない。それを辛抱強
く続けることによって、子供は自制心を身に付けていく。

 長い時間習字をしていると、すっかり指が凍えて、手が紫色
になった。いしがそれを見てすすり泣きをしているので、鉞子
は初めてその事に気がつくのだった。

 稽古が終わると、いしは温めてあった綿入れの着物に鉞子を
くるんで、急いで祖母の部屋に連れて行った。祖母は温かくお
いしい甘酒を用意しており、鉞子は冷え切った膝を炬燵(こた
つ)に入れて、その甘酒をいただいた。

■4.ご先祖様をお迎えする悦び■

 正月やお盆などの年中行事も厳格なしきたりに従ってとりお
こなわれたが、その中には家族との楽しい一時があった。

 盂蘭盆はご精霊さまをお祀りする日で、数々の年中行事
の中で、一番親しみ深いものでありました。ご先祖さまは
いつも家族のことをお忘れにならないものと思い、年毎に
み魂をお迎えしては親しみを新たに感じさせられるのであ
りました。[1,p95]

 ご精霊さまをお迎えする準備は、万事万端しきたりに従って、
数日前から家中のものがたち働いた。爺やと下男は庭木に鋏
(はさみ)を入れ、床下まで掃き清め、庭石を洗う。女中たち
は柱や天井板までお湯で雑巾がけをする。母がお納戸から父の
秘蔵の軸を出して、床の間にかけると、女中がその前に花瓶を
据えて秋の七草を挿した。

 鉞子は祖母と一緒に、お仏壇の前に座り、飾り付けをする。
ナスとキュウリで作った牛と馬をお供えした。

 どこの子供も同じことで、私もご先祖様をお迎えするの
は何となく心うれしく感じておりましたが、父が亡くなり
ました後は、身にしみて感慨も深く、家族一同仏前に集い
ますと、心もときめくのを覚えるのでありました。誰も彼
も、召使達も質素ながら新調の着物を着ていました。黄昏
の色がこくなりますと、みあかしをともし、障子をひらき
入口の戸をあけひろげて、外からお仏壇への途をあけまし
た。

 それから大門の前に一同、打ち揃って、二列に並び、ご精霊
様を待つ。ご精霊様は何処とも知れぬ暗黒の死の国から、白馬
に乗ってやってくるものと、言い伝えられていた。

 街中が暗く静まりかえり、門毎に焚く迎え火ばかり、小
さくあかあかと燃えておりました。低く頭をたれています
と、まちわびていた父の魂が身に迫るのを覚え、遙か彼方
から蹄(ひづめ)の音がきこえて、白馬が近づいてくるの
が判るようでございました。[1,p99]

■5.父は私共に平和をのこして行って下さった■

 それからご精霊様との楽しい2日間を過ごす。

 家の中は心楽しい空気に満たされ、わがままな業をする
者もなく、笑いさえ嬉しげでした。それも、皆が新調の着
物を着、お互いに作法正しく、お精進料理を頂いて楽しみ
あうことをご先祖様も喜んでいて下さると思うからでござ
います。祖母のお顔はいろいろ穏やかに母の面は静かなや
すらいに満たされ、召使いまでが笑いさざめき、私の心の
中にも、静かな悦びが湧きあふれるのでございました。
[1,p101]

 16日の朝まだき、ご先祖様を送り出す。母は蓆(むしろ)
を二つに折り、両端を蔓(つる)で結んで舟を作った。それに
おにぎりや団子を入れ、皆で川に赴く。川岸には、み送り舟を
流そうとする人々がたくさんつめかけていた。鉞子らは橋の上
にいて、爺や一人が水辺に降りて、火打ち石で灯籠に火を灯し、
舟を流れに浮かべる。朝日の光が山の端から差し出ると、人々
は一斉にみ送り舟を放した。

 あたりの明らむにつれ、浮きつ沈みつ、小さな蓆舟が流
れ流れていく様を、はっきりとみとることが出来ました。
朝日がいよいよ光をまし、山の端をのぼりきる頃、川辺に
頭をたれた人々の口からは静かに深い呟きがおこるのでご
ざいます。

「さようなら、お精霊さま、また来年も御出なさいませ。
お待ち申しております。」

 こうして人々は家路につく。

 母も私も、浄福とでも名付けがたい、穏(おだや)かさ
を胸に湛えて、川辺を立ち去りました。・・・お盆を迎え
て以来、にこやかにみえた母の面には、父を見送った後も、
以前のような憂わしげな色は戻っては参りませんでした。
それをみるにつけましても、父は、私共のところへ参って
慰め、また舟出をされた今も、私共に平和をのこして行っ
て下さったのだと、しみじみ感ぜさせられたことでした。
[1,p102]

■6.「お前の嫁入り先が定まりました」■

 鉞子の家にアメリカからしきりに便りが届くようになった。
アメリカで商売をしている兄の友人からである。そのうちに叔
父たちも集まって、親族会議が開かれた。

 長い会議の間、鉞子は手習いに夢中になっていたが、ふいに
皆が揃っている座敷に呼ばれた。母がやさしく「鉞子や、神仏
のお守りあって、お前の嫁入り先が定まりました。兄上はじめ
皆々さまのお計らい故、よくよくお礼を申し上げなさい」と言
われた。

 鉞子は額を畳につくほど丁寧にお辞儀をして、また部屋に戻
り、手習いを続けた。鉞子はまだ13歳だったが、当時の女子
の常で、ごく幼い頃から自分もいつかは必ずお嫁にいくものと
思っていたので、さほど驚きもしなかった。また婚姻は個人の
問題ではなく、家全体が関わることと思っていたので、相手が
誰か、聞いてみようともしなかった。

 相手はアメリカにいる兄の友人・杉本松雄で、数ヶ月後、そ
の叔父が京都からやってきて、結納を済ませた。その日から妻
として躾が始まった。それまでも料理や裁縫、家事、作法など
は多少は仕込まれていたが、夫の家に入った妻として、それら
を本格的に習い覚えた。

 祝日や松雄の誕生日には、まだ見ぬ夫のために陰膳を据える
のも鉞子のつとめだった。兄から聞いた松雄の好物を、自ら作
り、陰膳にお給仕をした。

■7.「女も男も、武士の生涯には何の変わりもありますまい」■

 ある日、媒酌人を通じて、松雄が米国で西部から東部に移っ
て、独力で商売を始めることにしたので、数年は日本に帰れな
いから、鉞子に渡米するようにと言ってきた。武家として遠国
に嫁を出すいうこともよく行われていたので、鉞子が海を渡っ
てアメリカに行くことは大した問題とは思われなかった。

 祖母は、ある夜、鉞子と炬燵に入って、こんな話をしてくれ
た。ちょうど60年前のその晩、祖母は14歳にして稲垣家に
嫁入りするために、生家を出発したという。それは京都よりも
遠い国で、この越後の長岡に辿り着くのに1月もかかった。

 こちらへ来てみると、お国とはすっかり違い、習慣も言
葉も奇妙に思われ、まるで異国にいるような心持でしたが
の、それでの祖母(ばば)はこの頃異国へゆくお前のこと
が気になってなりませんがの。これ、エツ坊や。

 そして、やさしい声でこう結んだ。

 住むところは何処であろうとも、女も男も、武士の生涯
には何の変わりもありますまい。御主に対する忠義と御主
を守る勇気だけです。祖母のこの言葉を思い出して下され。
旦那さまには忠実に、旦那さまのためには、何ものをも恐
れない勇気、これだけで。さすればお前はいつでも幸福
(しあわせ)になれましょうぞ。[1,p119]

■8.「千年の老樹の根から若桜」■

 米国へ行く準備として、鉞子は東京の学校で英語を習うこと
になった。父の旧友の家に寄宿し、ある宣教師の経営する学校
に通い、英語や国語、歴史、聖書などを一心に学んだ。ことに
旧約聖書は一番好きで、その中に出てくる英雄の生き方は日本
の古武士と同じように思われた。

 学校の校門をでると田畑が広がっており、天気の良い日には
先生に連れられて田舎道へ散歩に出かけた。八幡宮の苔むした
玉垣のところで、先生は立ち停まって、葉のよく茂った桜の若
木を指し示した。その若木は老い朽ちた大木の洞(ほら)から
生え出ていた。その傍らの立て札には「千年の老樹の根から若
桜」という句が書かれていた。先生は微笑みながら言った。

 この桜の木はちょうどあなた方のようなものですね。古
い日本の立派な文明は今の若いあなた方に力を与えている
のです。ですから、あなた方は勢いよく大きくなって、昔
の日本が持っていたよりも、もっと大きい力と美しさを、
今の日本にお返ししなければなりません。これを忘れない
ようになさいね。[1,p172]

 鉞子は武家という「千年の老樹」の根から生え育った若桜と
して、異国の地に移り、そこで根を張り花を咲かせようとして
いた。
(文責:伊勢雅臣)