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国際派日本人養成講座よりの転載です。

http://blog.jog-net.jp/201702/article_4.html

 

■1.「朝鮮侵略」?

東京書籍版中学歴史教科書(東書版)は、「海外貿易と朝鮮侵略」と題して、「1592(文禄元)年には,明の征服を目指して,諸大名に命じ,15万人の大軍を朝鮮に派遣しました(文禄の役)」と書く[1, p109]。しかし「朝鮮侵略」と堂々と書かれると違和感がある。

第一に、同じ教科書で元寇に関しては「侵略」とは書かない。「モンゴルの襲来と日本」と題し、本文でも「元は・・・攻めてきました」「この二度の襲来(元冠)の後も,元は日本への遠征を計画」と書く[1,p76]。「侵略」とは、日本が攻めていった時だけ使われる用語のようだ。

この点で、育鵬社版は両方とも「侵略」という用語は使わない。
元寇では「元の襲来」「元軍は対馬,壱岐に攻め寄せ」、秀吉の方は「朝鮮出兵」「朝鮮に15万あまりの大軍を送りました」「ふたたび出兵しました」である。

「襲来」や「出兵」は、兵が押し寄せる、兵を出すという事実そのものを表現する言葉だが、「侵略」は違う。Wikipediaでは「相手の主権・政治的独立を奪う目的の有無に注目した用語」であり、「今日の意味での『侵略』(aggression)が使用されたのは1919年のヴェルサイユ条約において」と説明している。しかも、その定義は現在でも困難な状態にある。[2]

したがって、400年以上前の戦いについてこの用語を使うことは、歴史記述というより、政治的主張になってしまう。

第二に、東書版本文で「明の征服を目指して」と書いているように、秀吉は朝鮮を自分の領土とするために「侵略」しようとしたわけではない。「明への道を貸せ」と言ったのに抵抗したので、戦いになったのである。したがって、この意味でも「朝鮮侵略」とは誤った表現である。


■2.活気に満ちていた東アジア経済圏

朝鮮出兵の目的を、育鵬社版はもう少し詳しく書いている。

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全国を統一した秀吉は,国力のおとろえつつあった明にかわり,日本を東アジアの中心とする新しい国際秩序をつくろうとしました。フィリピンや台湾に服属を求めるとともに,明に出兵しようとしました。[3,p111]
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「日本を東アジアの中心とする新しい国際秩序」は、もう少し説明が必要だろう。秀吉が構想していたのは、明に替わって、東アジアの国際貿易体制を支配しようという事のようだ。

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・・・東アジア経済圏、そこは、15、6世紀世界ではヨーロッパを凌(しの)ぐ最も活気に充ちた貿易圏であり、その最大の都市が堺だった。[4, p94]
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とは、経済史家・角山栄氏の言である。

東アジア経済圏は日明貿易が中心で、日本から銀、硫黄、銅、日本刀などを輸出し、明から生糸、絹織物を輸入する。銀を大量に生産し、シナ物産の輸入大国だった日本は、東アジア貿易圏では際だった存在であった。当時、明と日本は貿易によって世界一、二の経済大国であったと推定されている。[4, p102]

しかし明は海禁(鎖国)政策をとっており、明に臣従して朝貢する、という形での貿易しかできなかった。そのために密貿易に従事するシナ人が多かったのだが、そこに目をつけたポルトガル人がシナで仕入れた生糸、絹織物を日本で高く売る、という対日貿易ルートに参入していたのである。


■3.秀吉の東アジア国際貿易体制の構想

秀吉の構想に関しては池上裕子・成蹊大学名誉教授の「日本を核とする朝貢貿易構想」[5]が詳しい。長文の説明をポイントのみ要約すると以下のようになる。

秀吉はまず大坂から瀬戸内海を通って博多・長崎に至る交易路を支配した。そのために大坂城を築き、瀬戸内海沿岸に子飼い・近習の武将を配置し、海賊停止令を出し、博多・長崎を直轄領とした。

石見銀山(島根県)、生野銀山(兵庫県)などを支配し、銀を輸出した。当時、日本は世界の銀の三分の一を産出する資源大国であった。キリシタンは禁じたが[a]、交易のためのポルトガル船はどこの港にでも自由に来るようにと命じた。さらに高山国(台湾)、スペイン領マニラ、ポルトガル領ゴアに入貢を求めた。

秀吉が単に「明の征服」を目指したと考えると「老いらくの狂気」のように思えてしまうが、東アジアの国際貿易を支配しようとしたと考えると、雄大な戦略性が見えてくる。

しかし、スペインがフィリピンの次にシナを植民地化しようとする野望が露顕した。その大船建造技術・航海技術とシナ大陸の経済力が結びついたら、元寇以上の脅威となる。その前に、明をおさえようとする「先制的自衛」であったというのが、近年唱えられている説である。[a]


■4.民衆から石を投げられた李朝の王

こうして朝鮮出兵となったのだが、朝鮮での戦いの記述でも、両教科書で違いが見られる。

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(東書) 1592(文禄元)年には、明の征服を目指して、諸大名に命じ、15万人の大軍を朝鮮に派遣しました(文禄の役)。[1, p113]
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(育鵬社) 1592(文禄元)年,秀吉は明への案内役を断った朝鮮に15万あまりの大軍を送りました。[3, p111]
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育鵬社版で「明への案内役を断った」という記述は正確である。国際貿易体制を目指す秀吉には、朝鮮はそれほど価値のある国とは見えなかっただろう。

戦いの前半の記述は、ほぼ同じである。

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(東書版)日本の軍勢は、首都漢城(ソウル)を占領して朝鮮北部に進みますが、[1, p113]
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(育鵬社版)軍勢は、一時は首都・漢城(現在のソウル)を占領し朝鮮北部にまで進撃しました。[3, p111]
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しかし、なぜ日本軍が朝鮮北部まで行ったのか、行けたのか、が興味深い点である。

 

画像
[3, p111]



■5.逃げる王に石を投げた朝鮮民衆

実際の戦闘状況については[6]が詳しい。それによると、日本軍の進撃の速さは凄まじかった。天正20年4月12日に釜山に上陸すると、翌日には釜山城を落とした。朝鮮兵は6千人もいたが、鉄砲を知らなかったのだから、話にならない。

わずか3週間後の5月2日には漢城(ソウル)に入った。日本軍が近づくと、李王朝を恨んでいた民衆が進んで城門を開けてくれた。逃げ出した王に従う者は百人くらいしかいなかった。途中でほとんどの民衆は「王様は民のことを思わずもっぱら後宮を富ませた」と罵声を浴びせ、石を投げたという。

王の一行は途中で、明に援軍を頼むか否かを議論したが、明の援兵が来ても、その暴掠(ぼうりゃく)は日本軍よりひどいだろうという議論が勝って、援軍を頼むという主張は否定された。

小西行長の軍は上陸後、わずか2ヶ月後の6月16日に平壌を占領するが、その過程では一兵一馬も邪魔する者がなかったという。[6, p177]

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一方、加藤清正は・・・京城で小西軍と分かれ、(JOG注:二人の王子を追って)東北の山の奥地へ向かう。・・・途中の永楽府というところでは地元の人間が「二人の王子はこの奥を通って行った」などという立て札を立てている。清正は、途中、民衆を手なづけながら進み、民衆は食べ物や酒、果物などを進上する。まったく立場が逆である。[6, p177]
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その二人の王子は、7月23日に満洲国境あたりの会寧で降伏してきた。清正は礼を尽くして保護した。両教科書とも、日本軍の進路を地図で表示しているが、日本軍はわずか3ヶ月で釜山、漢城(ソウル)、平壌、さらに満州国境地域まで、言わばほとんど朝鮮全土を占領しているのである。朝鮮北部まで進撃したのは、こういう事情であった。


■6.「各地で朝鮮の民衆による義兵が抵抗運動を起こし」!?

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(東書版)日本の軍勢は・・・、救援にきた明軍におしもどされました。また、各地で朝鮮の民衆による義兵が抵抗運動を起こし、朝鮮南部では、李舜臣の水軍が日本の水軍を破りました。
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(育鵬社版)しかし,李舜臣の率いる朝鮮水軍に敗れ,明の援軍も参戦して戦局が不利になると,明との講和をはかり,兵の一部を引きあげました(文禄の役)。
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東書版での記述には「各地で朝鮮の民衆による義兵が抵抗運動を起こし」とあるが、前節の民衆の王への恨みを書いていないので、あたかもベトコンが「義兵」となって、アメリカ帝国主義に「抵抗」したのと同様に読めてしまう。

東書版が、この民衆の抵抗を「明軍におしもどされ」の後に述べているように、朝鮮人民が立ち上がったのは、明軍が来てからのようだ。日本軍が強いときは日本軍を応援し、明軍が来るとそれに従う、という、要は朝鮮得意の「強きに従う」事大主義だろう。


■7.日本軍の陸戦での唯一の敗戦

また、東書版の「救援にきた明軍におしもどされました」と育鵬社版の「明の援軍も参戦して戦局が不利になると」も、記述が異なっている。

日本は水軍とは言っても輸送船団程度のもので、朝鮮水軍に敗れて北朝鮮まで食糧や物資を補給できなくなった。京城(ピョンヤン)を占領していた日本軍も、補給が不十分となり、寒さも増し、また明軍も出てきた。そこに「日本軍の陸戦での唯一の敗戦」を喫し、やむなく漢城まで引きあげた、というのが、実際の戦況である。

この「唯一の敗戦」は明軍4万5千、朝鮮兵20万が、平壌城に立て籠もる小西行長軍約1万5千を攻めた時だった。明軍の将は明兵に朝鮮の軍装で攻めさせた。日本軍は「ああ、朝鮮軍か」と甘く見て本気の防御には入らない。それが急に朝鮮の軍装を脱いで攻めてきたので、小西軍は慌てて防戦した。

明軍は攻めあぐんだが、そのうち城の食糧倉庫に火がついて、日本軍は退却して、10日間も雪と氷の中を京城まで逃げた。朝鮮軍も明軍も追撃しなかった。日本軍は鉄砲の威力と剣術とで、陸上戦においては明軍も敵ではなかったからだ。ただ日本国内の戦いと違って、外地では物資補給がネックとなる。日本軍の兵站が不得意なのは、大東亜戦争でも同様だった。


■8.世界史からの視点が必要

この後の経過の記述は、概ね両教科書とも同様である。東書版で見ると:

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そこで,明との間で講和交渉が始まり,明の使節が来日しました。しかし,講和は成立せず,秀吉は1597(慶長2)年から再び戦いを始めました(慶長の役)。日本の軍勢は苦戦し, 1598年に秀吉が病死したのを機に,全軍が引きあげました。

7年にわたる戦いで,戦場になった朝鮮は荒廃し, 日本に連行される者もいました。日本の武士や農民も重い負担に苦しみ,大名の間の対立をもたらして,豊臣氏が没落する原因になりました。[1, p109]
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ここで語られていない史実をいくつか指摘しておこう。いずれも、当時の実情を知るには重要なポイントである。

第一に、講和が成立しなかったのは、明が秀吉に「日本国王と為す」などという中華意識丸出しの書状を出したからだ。秀吉は「国王など明のこせがれに任じてもらわなくともいつでもなれる。そもそも日本には天皇がおわします」と激怒して、明の使いを追い返したのである。

第二に、交渉は日本と明との間で直接行われ、朝鮮は蚊帳の外に置かれた。「朝鮮は、日本からも、明からも、独立国として扱われなかったのである。」[7, p275]

第三に、明軍は日本軍が引きあげた慶長3(1598)11月以降も、慶長5(1600)年まで駐留して略奪をほしいままにし、引き揚げに際しても、めぼしいものや女性をごっそり持ち帰っている。「(明兵の)暴掠(ぼうりゃく)は日本軍よりひどいだろう」とは、正確な予想であった。

第四に、日本軍との戦いは明の滅亡を早めた。『明史』にも「師(兵)を失うこと数十万」とあり[5, p151]、財政も破綻した。すでに清の太祖ヌルハチが満洲で挙兵しており、1619年にはサルフの戦いで明軍を破り、1636年には朝鮮を属国とし、1644年には明朝を滅ぼした。

このような世界史的視点を持たずに、国内から、しかも日本侵略史観だけで見ていると、狂った秀吉が無謀な「朝鮮侵略」を行って、正義の明軍に成敗された、という歴史認識で終わってしまう。それでは歴史から学ぶべき点がたくさんこぼれ落ちてしまう。
(文責:伊勢雅臣)


■リンク■

a. JOG(154) キリシタン宣教師の野望
キリシタン宣教師達は、日本やシナをスペインの植民地とすることを、神への奉仕と考えた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h12/jog154.html

 

 

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