全体主義からの自由 | 真理は心の中にある

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真理は心の中にある。これが私の基本的修行スタイルです。日々、思っていること、考えていることのなかで、読者が参考になると思われることを書いていきたいと思っています。

自由、自由と言っても、自由って何でしょう。
自由っていう言葉は、みんな知っているけれど、その言葉を定義しようとすると、意外と定義しづらい言葉だ。

同じ言葉であっても、使う人によって、その意味付けは異なっている。

自由という言葉を肯定的に捉える人もあれば、アレルギー反応を示す人もいる。
こんな違いが生まれる原因の一つは、自由という言葉に対して、全然、違う意味付けをしているからだと思う。

そもそも自由という言葉が生まれたのは、明治時代。
生みの親は福沢諭吉です。

英語を翻訳する時に、Libertyに相当する言葉がなかったので、福沢諭吉が自由という言葉を考案して、これに当て嵌めたのが始まり。

だから、それまで日本人は自由について、考えたことは無かったわけです。
言葉が無いんだから当たり前です。

アメリカ人にすれば、自由を求めるのは当たり前で、「自由は素晴らしい」と思うだけですが、日本人の場合、自由という言葉を聞いても、そこにリアリティを感じないようです。

日本人であれば、自由っていう言葉を聞くと、自分勝手、なんていう言葉を連想するかもしれない。

自由という言葉は、元々はキリスト教的な内面を重視する考え方と、ギリシャ的な発展繁栄を目指す考え方から生まれてきたものだと思います。

ですから自由っていうのは、個人の生き方を表す言葉というよりも、一つの社会思想だと思います。

例えば、儒教なんかは道徳中心の教えですから、忠義を尽くす生き方が尊いとされている。
だから社会は安定するのですが、ほとんど発展しない社会となっていく。

やっぱり個人の生き方、個人の考え方にスポットライトを当てないと、発展なんかありえないということでしょう。

朱子学を奉じていた朝鮮は、数百年、発展することはありませんでした。
むしろ民衆の生き方は原始化していったくらいです。

朱子学は体系的な、道徳中心の学問です。
道徳的に完成された人間を作るのが、目的だったのでしょうけれども、実際は徹底した抑圧が行われたのが、現実です。

実学は、全然、発達しませんでした。

公に尽くすという考え方は大事だとは思います。
ですが、余りにも偏ると、個々人は、全く尊重されない全体主義的な、抑圧された社会となっていきます。

やはり「希望ある未来」というのは、個々人の心の中にあるのであって、社会とか、全体にあるのではないということです。

神の御心も、そうであって、それは個々人の心に宿るものです。

公に尽くすという生き方は素晴らしいことです。
しかし、その中で、個々人の生き方、考え方が蔑ろにされるとしたら、それは本末転倒です。

「個々人の生き方、考え方を尊重する。」
その中にこそ、「希望ある未来」はあります。

ゆめゆめ勘違いをしてはいけない。
私は、そう思います。